耳なしの理論

藤野竜樹



 『耳なし芳一』と言えば、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)のアンソロジー『怪談』でも冒頭を飾るとても有名な物語だ。本論ではこれから同話を肴として一席ぶとうと考えているのだが、前知識を共通化しておきたいから、一応簡単に筋を記す。
 その昔、阿弥陀寺に住む芳一と言う盲人がいた。彼は琵琶の名手で、特に平家物語を弾き語ることを得意としていた。芳一は或る日から請われて高貴な人の家に出向いて平家物語を弾き語る。が、日に日にやつれる彼を見て和尚が不審に思って後を付けさせた所、壇ノ浦で死んだ安徳天皇の墓前でそれと知らず弾き語っていたのだった。あくる朝、芳一を問い詰めると七日七晩通うと言う。危険を察した和尚はその日以降彼が出向くのを止めさせる。が、あいにくその日の和尚は法事で出かけなければならない。そこで和尚は亡霊が芳一を連れに来ても知られないように、芳一の全身に般若心経を書き付け、迎えに来ても返事をするなと芳一に含めて出かけた。そうしてその晩も一人でいる芳一の元に亡霊が迎えに来るが、亡霊からは芳一の姿は見えない。しかし奇妙なことに、耳だけ浮かんでいるのが見えたから、その耳だけを引っつかんで去っていった。あくる朝和尚が苦しんでいる芳一を見つけ、経が耳にだけは書いていなかったことを悟る。
 とまぁざっとこんな話だ。寝物語からまんが日本昔ばなしまで広く日本人ならこの話を聞く機会があったろう有名な話だが、知らないという人はこの際一読をお勧めする。

 さて、条件が整ったところで論を進めよう。本稿で議論してみたいのは、題名ともなっている芳一の耳が、何故取られたのかという件についてである。彼の体に書かれた般若心経が耳だけ書き忘れていたからだというのが物語を普通に聞く限り理解される理由だが、それを鵜呑みにしないで少し考えると、沸いてくる疑問が多いのである。何故取られたという疑問はだから、何故般若心経が効かなかったのかという疑問に言い換えてもいいだろう。だから今回は下記の3点について考察してゆく。すなわち、
1.お経の効果とはどのようなものなのか。
2.本当に消えてしまうのか。
3.何故耳だけ書かなかったのか。
である。

 まずは1だ。そもそもお経を書かなかったからと一口に言うが、例えばお経が何らかスイッチのような効果を果たすのなら、効果は芳一にON/OFFで働いてもいいのだ。「変身、トウ!!」と叫んで仮面ライダーに変身するようなのだったとしたら、これは下半身だけライダーになれなかったとか、そういう事態が起きたことになる。だからお経の効果とは、唱えることで透明化するといった、“アブラカダブラ”と同様の意味での、呪文を唱えられた結果周囲に影響を及ぼすと言った類のものではないわけだ。そんなの物語を踏まえれば了解されることじゃんと言われるかもしれないが、そう考えることもできるということだ。
 物語から推察するに、ここでいうお経はなんらか、文字が書かれている付近だけ効果を及ぼすことが出来るもののようだ。では実際その効果はどのくらいの範囲なのか。これは3つ考えられて、
(i)文字の書いてある場所だけに効果がある。
(ii)文字を中心に一定の空間に効果がある。
(iii)文字を中心に一定の平面に効果がある。
となる。
 (i)なら、相撲の番付表に使われる相撲文字みたいに、できるだけ黒い部分の面積を大きく書けばいいのだろうか。だが、どんなに頑張っても文字の隙間は残るわけで、霊から見たらジャングルジムのような白い部分だけで構成された人のようなものがあるように見えるだけだろう。そもそも真っ黒に塗りたくればいいのなら、闇夜のカラスの絵がカラスを描いていようがいまいが同じことってのと同じ理由で、お経が書かれていてもいなくても黒ければ同じということになる。それは結局お経ではなく墨に効果があるのであって、お経を一文字一文字書くなんて面倒なことをしなくても、墨を頭からザブンとかぶれば良いってことになる。
 では(ii)なのか。一見納得できそうなのだが、頭が見えなかったということは耳の周りにも当然書いてあったから見えなかったわけで、よしんばお経の一文字が「なんちゃらバリヤー」みたいに(例えが悪ければ爆弾の効果範囲と言ってもいい)、半球状に効果を及ぼすのなら、耳の周囲のほかの文字の効果範囲と干渉するだろうから、耳くらいその中に隠れてもよさそうなのだ。
 と言うように考えると、(iii)が妥当かなという気がしてくる。この場合も耳の周囲に書かれた文字どうし、効果が干渉して耳がその中に入るかもしれないが、耳は出っ張っているので効果範囲から外れてしまうのである。

 では次に別角度、すなわち2を検討してみよう。透明になるってのは実際どういうことなのかを考えてみるのだ。
 ここで筆者はあえて、“実際に消えているわけではない。”という仮説を提唱する。先ほども述べたように、全身が消えるのであれば、それは呪文的効果を発せられた結果であるわけで、そもそも消えちゃってるのなら先ほどの闇夜のからすの例と同じで、お経が書いてあろうが無かろうが同じことだろう。すなわちここでは、身体に書かれたのがお経であることに必然性があるはずなのである。要は、亡霊がお経を読んで、その意味を取れることが重要なのである。
 実を言うと、これは物語の本質的にもその通りで、和尚がお経、それも般若心経を書いたことに意味がある。というのも、般若心経とは“色即是空 空即是色”ってやつで、いわゆる“無”を説く教説なのだ。ここでは内容にまでは立ち入らないが、無からの連想で和尚は般若心経を書けば芳一は無となる、と考えたとされている。(馬鹿馬鹿しいといわれるかもしれないが、正月のおせちだってマメに行きたいから豆を食うとか、よろ昆布とかこじ付けばっかりじゃない? そもそも神様に手を合わせて「○○が△△しますように。」ってお願いするけど、言葉に力が無いと端から信じてなければあんなことしないのだ。そんなことは棚に上げて、こういうときだけ馬鹿にするのは筋違いだ。かように言霊思想とは、現代にもちゃんと通底している、日本思想の根本原理の一つなのである。)
 うっかりまともなことを書いてしまったが、言霊だからということで終わらせてしまっては机上理論らしくないので、敢えて筆者は更に突っ込んで考える。すなわち、般若心経を読ませることが無である思想を霊に理解させるということはまぁ納得しよう。でもそれは無という教義を理解することであって消えるのは別の理由なんじゃない? というわけだ。
 筆者が考える透明化の理由はそれが、心理学がでいうところの“錯視”じゃないかということだ。

 錯視、いわゆる目の錯覚は、例えば下記に二つ示すけど、一方はルビンの壷、顔二つか壷に見えるってもの。もう一方はよくわかんないかもしれないが、ボコボコした形のそれぞれ一番高いところで各々をつなぐ横一線を引き、同様に一番低いところでも横一線を引くと、間に“LIFE”って文字が浮かび上がるでしょ。これも有名な絵。で、錯視で重要なことは、一方を認識すると、他は認識できなくなるってこと。一方を形(図、という)として認識すると、もう一方は背景(地、という)になっちゃうのだ。いったん見えると、もうLIFEとしか見えないでしょ。

 図:ルビンの壷と錯視画の例

 ということで話を戻すと、そういう錯視が、ここで亡霊に起こっているのではないかと考えるのである。つまり芳一は、上に言う“図”すなわち自分を亡霊の認識対象ではなく、“地”になることによって亡霊に気付かれなくしたのではないかと考えるのである。
 これも無根拠で言っているわけではない。魔よけとされるものの代表である“おふだ”って、実は文字が書いてあるだけだし、そこらの家の塀にあるブロックの格子模様、今はデザインだけだけど、元々は外からやってきた魔に格子の数を数えさせて気を逸らすという効果を持つ図形の名残なのだ。かように、魔よけの多くは文字や単純な形状に魔の関心を寄せることにあるのだ。

 で、そう考えると、芳一の耳が浮き出した理由も推察できることになる。というのも、文字は読めることが重要なんだから、字が変形してしまうような立体的な構造をしている場所では字がゆがんでしまうため、元々そういう場所は文字の認識がし難い可能性がある。そしてそれは正に複雑に飛び出した“耳”という構造に当てはまるのである。つまり、本来背景となるべき耳が、図として浮かび上がり、ために亡霊に認識されてしまったのだ。

 以上で、2の理由がご理解いただけただろうか。実際筆者も、これで本論冒頭に示した“何故耳を取られたか?”という問いに対する技術的な結論は出たと考えている。
 だがそれなら、どうして3がまだ残っているのかと思われるかたがいたら記憶がいい。上記理論を踏まえれば、上手く書けなかったから書かなかったんじゃないの?ってことで納得できるじゃんということだ。確かにその通り、しかし筆者は敢えて、和尚が芳一の耳にはお経を“書かなかったんだ”と言ってみる。
 何故か? 和尚は考えたのだろう。芳一がわざわざ夜な夜な出かけていったのは、亡霊たちが自分の弾き語りを絶賛してくれたからである。筆者もそうだが、名誉欲を刺激されることに人間は弱いのだ。そういうわけで、芳一は亡霊立ちに心を奪われてしまっている。それではこの日をやり過ごしたとして、いつかまた芳一自身が行きたいと願わないとも限らないのである。すなわち、そうした亡霊との関係、しがらみを、芳一は清算しなければならない。

 和尚はだからそんな関係、いわば借金を、耳を揃えて返したかったのだろう。


補足
 本論を組み立て中に、では般若心経はどう書かれることが望ましいかについても考えてみた。背中くらい広い場所ならお経を全部書けるだろうが、小さな場所には一文字しか書けないわけで、亡霊が最初にそこを見たら文字が一文字あるとしか認識しないだろう。
 考えたのは、座っている芳一を見下ろした場合、最初に目が行くのは頭の天辺だから、そこかららせん状に書くか、放射状に書くかがいい手段だろうということだ。ただらせんにすると、身体と枝分かれする腕辺りで文章が破綻するおそれがあるから、放射状に書いていって隙間が開いたら新たな行を追加するって感じで書いていくのが有効だろう。ただそもそも一番最初である天辺で方向性を与えるのは拙い。さかさまの文字は文字と認識されない可能性があるからだ。だから天辺に書く字は方向性を持たない文字、“十”“米”“口”“井”“田”などで始める文章が好ましいと思われる。般若心経は“観”で始まるから、そうした点では不適当かもしれない。




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