全能の神は失敗する

穂滝薫理



 キリスト教の神(また、ユダヤ教、イスラム教の神も同一だが)は“全知全能”と言われている。すなわち、“全てを知っており、全ての能力がある”ということだ。“全ての能力がある”というのはちょっとわかりにくいので“なんでもできる”と言い換えてもよい。なんでもできるということは、“全てを知る”こともできるわけだから、厳密に言えば、“全知”は“全能”に含まれている。だから“全知全能”という言葉は“男の兄弟”とか“今朝の朝刊”的な重複があることになる。まぁ、全てを知っているというのは、それなりに人びとに驚きをもたらすことであるから、強調の意味でそう言っているのかもしれない。
 ところで、そんな全能の存在であるにもかかわらず、神による人類の救済はうまくいっていないようにみえる。今の世の中を見ると、神は人類を導く(どこへ?)ことに失敗しているようにさえ感じられる。そもそもなんでもできるのなら、なぜ全人類をキリスト教徒に改宗させるというような簡単なことができないのだろう? 本当に神はなんでもできるのだろうか? ひょっとして全能なんかじゃないのでは?

 というような軽率な質問には簡単に答えることができる。なぜなら、“できる”ことと“する”ことは全然別問題だからだ。
 たとえば、私は今飲んでいるコーヒーカップを今目の前にあるパソコンのモニターにぶつけて、パソコンのモニターを壊すことができる。だが、私はそうはしない。できるけどやらないのだ。もっとささいなことでもいい。今、私のコーヒーカップには、コーヒーが、えーっと、3分の1くらい残っているが、私はこれをそのまま飲み干すことも、台所に流すこともできる。あるいはなにもしないということもできる。さて、今から、私はこのコーヒーをどうするだろう。というわけで、台所に流して捨ててきた。なぜ、私がそうしたか、理由は私にしかわからないだろうし、実はどうでもいいことだ。私を信じない異教徒のみなさんは「なぜコーヒーを飲み干すような簡単なことができないのか? 本当にやつには飲み干すことができるのか?」と言うかもしれない。だが、できるのだ。
 このように、できるからってやるとは限らないし、やらないからってできないことの証明にはならない。神は全人類をキリスト教徒に改宗させてはいないかもしれないが、それは単にやってないということに過ぎない。少なくとも今のところは。
 つまり、神が行なったこと(あるいは行なわなかったこと)から、神の全能性を否定することはできないのである。逆に神の全能性を肯定することは、神の行動の中にいくらでも見出すことができる。
 たとえば神は、紅海を2つに割ってモーゼをエジプトから逃がしてみせたし、死んだはずのイエス・キリストを生き返らせてみせた。これらは、私たちただの人間にはできないことである。というか科学的に考えてもできそうにない。できるとすれば、何物にも(科学にも)制限されずに“なんでもできる”必要がある。よろしい、とりあえず神は全能であることを認めようではないか。

 さて、全能であるがゆえに、神には人殺しも可能である。実際に、大洪水を起こし、ノアと動物たちを残して人類をほぼ皆殺しにした。つまり、なんでもできるということは、道徳的に正しくないと思われることや、マイナスの結果を伴うようなことでもできるということなのだ。たとえば、神は肉欲におぼれることもできるし、コカインに手を出すこともできる。
 私は、冒頭で「神は全能なのに、人類を導くことに失敗している」というようなことを書いた。これはいまや間違いであることがわかる。全能であるということは、失敗する能力も持っているということだ。だから、「神は全能なので、人類を導くことに失敗している」のである。





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