第三の情緒

木賃ふくよし(芸名)



 熱血という言葉がある。
 辞書によると、熱い血潮。また、血がわきたつような激しい情熱。熱烈な意気込みであると言う。
血をたぎらせている雰囲気があり、昔のスポ根モノと言えば熱血は必要不可欠なキーワード。近頃のように主人公は天才というパターンは少なく、天才なのはライバル。天賦の才を持つ敵や、あるいは卑劣漢を、努力と根性で打ち破っていく。
 これぞ熱血である。これを聞いただけで、内側に潜む何かが燃えてこないだろうか?しかし、近頃「もえる」と言えば、「燃える」ではなく、「萌える」なのだそうで。ええ。顔の1/3を瞳が占めるようなアニメ・キャラクタを見て「○○ちゃん、萌え〜」とか。
 違う。「萌え」ではなく「燃え」なのである。
 瞳はキラキラ輝くのではなく、メラメラと燃え立たねばならない。それがワタクシの考え方だ。しかし、昨今流布しまくった「萌え」とやらは、正確にはどんな意味を持つのだろう。自国語を外国語に訳することは難しいが、自国語を自国語に訳す事もまた困難である。
 その観点から見た場合、「萌え」とは一体何なのであろうか?
 平たく言えば、「可愛い」に相当する言葉だ。だが、「可愛い」というだけでは少々言葉足らずなようである。端的に捉えるならば、「萌え」とは「リビドー」であろう。

 リビドー【libido】 無意識の深層から発する欲求、性欲など。

 なるほど。可愛くても、単に「可愛い」ことと、グッとくる「可愛い」は別物だ。好みの女性を見て「可愛い」と思う事と、動物を見て「可愛い」と思う事は全くの別物。何らかの欲求や衝動を伴ってこその「萌え」と言えば納得はする。
 しかし。しかしだ。
 何故だろう。「萌え」を成熟した大人の女性に対して使用する例は圧倒的に少ない。

 例えば、エマ・ワトソン(ハリー・ポッターのハーマイオニー役)が「萌え」なのは何となく理解できる。だがニコール・キッドマンを見て「萌え」と言う人間は少ないし、峰不二子を見て「萌え」と言う人間も少ない。むしろ、美女を何とかして落としてみたいという欲求は「燃える」が相応しいだろう。これは単純に「萌え」という言葉を使う人種と使わない人種の好みの差だろうか?
 いや、確かにそれもあるだろうが、少々違う気がしてならない。
 一見、完璧にさえ見える非の打ち所のない人間がちょっとした瞬間に見せる「油断」には「萌え」という言葉が適応されたりする。 つまり、「美」「欲求」「衝動」がイコール「萌え」には繋がらないようだ。と言うのも、「萌え」という言葉はそもそも、もやしの「萌やし」である。「新緑萌ゆる春」の「萌」となると、「萌え」とはある種の未成熟や発展途上という完成されていない部分を伴っていないとならないのではないだろうか。
 ある意味、現実世界の人間ではなく、アニメやゲームのキャラクタに恋心を覚える事こそが、自分の理想の相手としては完璧であっても、「人間としての種族に満たない相手」に恋をする事であり、それが「萌え」なのではないかとワタクシは考察する。
 そんな疑問を、知人にぶつけてみたところ、とんでもない返事が返ってきた。

 「萌えと言うのは、わび、さびに次ぐ第3の情緒」

 即刻反論しようと思ったが、寂しいはともかくとして、わびしいの説明が付けづらい。微妙に、反論を繰り出す糸口が見つからない。
 いや、そもそもわびさびって何なんだ?何となく理解したつもりで生きてきていたけれど、実際には意味も理解せずに使ってきていたというのか?悩むワタクシに、氏は続けた。

 「だいたい、わびさびなんて言いますけど、そこに色んな要素が詰まってなかったら、ただのビンボーです」

 認めたくないが、そうかも知れない。
 わびさびとは言うモノの、豪華絢爛の対義的な言葉である。悪趣味ではない豪華絢爛に対し、「シンプルな美しさ」や「粋」、「技術」や「魂」があるからこそのわびさびなのである。
 質素に生きることと質素にしか生きられない事は全く違うのである。恋を知らない事と、恋を知れない事は雲泥の差なのである。(by大槻ケンヂ) 別の機会に、先ほどとはまた別の知人が発言した。

 「Don’tとCan’tは違いますよ」

 何だかワタクシ、わびとさびに対して少し開眼したような気がいたします。
 え? 「萌え」の結論?
 正直、それにはあんまり興味がないので別に何でもイイです。





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