月がとっても蒼いから

藤野竜樹



 月は悠久の過去より天空を巡り、我々地球の生き物たちの昼と夜を見つめてきた、太陽と共に、我々にとってもっとも身近な天体である。故に過去より多くの者に愛され、その姿を讃えるため多くの絵画、詩が作られた。
 月がとっても青いから
昭和30年に菅原都々子さんが歌って大ヒットしたこの歌も、そんな数多月に関わる歌の一つだ。恋の歌である本内容の冒頭に、月と関わるときの心得が記してあり、忘れもしないそのはじめのフレーズは...

 死して屍 拾うものなし

じゃなかった。

 月がとっても青いから 遠回りして帰ろう

である。
 一般的に我々はこのフレーズを、恋人との甘い雰囲気を継続することに月が一役かっている程度にしか捉えていないが、それはこの言葉が持っている情報のホンの一部に過ぎないように思われる。なぜなら、そもそも彼女らは月が青いという条件を提示されたことにより“遠回り”という選択肢を余儀なくされているのだ。であれば、何故そんなことをしなければならなかったかという理由を正確に捉えることは我々にとって必要であるはずだ。いやしくも月という、我々にとって不可避の存在が原因であることを踏まえれば、それを追究することは急務であるとすらいえよう。
 ではこのフレーズは一体、どう捉えることが正しいのか。どう解釈すれば良いのか。本稿はこの点について考察し、読者らに安全に過ごしてもらおうという狙いがある。


1.危険度レベル0・一般的な認識と同様の場合
 月の青いことの危険性についてこれから述べていく前準備として、我々が一般的に認識している捉え方をまず抑えておこう。
 そもそもの常識として、我々が普段見ている月が青くないことは皆さんも認めるところだろう。では何が月を青くしているかといえば、ここでは月を空に仰いでいるときの地球の大気側、すなわち空模様が原因となっている。湿気を含んだ薄もやの晩、月はもやの摺りガラスを通して薄く変色する。それは無粋に言ってしまえば黄色がくすんだ色なのだが、冒頭に揚げた歌及び多くの粋人はそれを“青”と表現した。白く光る太陽を“真っ赤な”と表現したり、どう見ても緑なのに信号機の発信合図を“青”と呼ぶ、それは同じ軸線上の話なのであろう。どこかでは雨を降らせたかもしれない雲の一部が外れて空を漂ってきて、それが月の前を僅かに掠めていくとき、どこかしら感ずる情緒。“くすんだ黄色”と言うより確かにそれは“青”と言った方が粋であるとは筆者も考える。まぁなにしろこうした状況であれば、“遠回り”という付帯状況に危険性はほとんど無いのであり、筆者としてはせいぜい夜道に気をつけたまえという通り一遍のアドバイスを行う程度である。(現代ではこれとても結構物騒かもしれないが。)
(一応補足。古代日本語では青とは“灰色がかった白色”を指すらしく、それなら上記状態の月を“青い月”と称するのはまんざら間違っていないことになる。)

2.危険度レベル1・スイッチ効果
 月が青くなるという現象が、月自身の異変としてではなく、その影響を受けた地球側の何者かに変質を及ぼすという状況。満月を見た人狼が狼に変身するように、青い月が変質のスイッチとなると考えればよい。この場合は月という天体自身が青く発光している必要は無いわけだから、極端な話、影響を与えたい一帯と月の間にある空間に青いフィルムを貼る等の方法でも“青化”は出来るわけだから、まったくありえない状況ではない。
 では一体どんなものが、この青化に伴って引き起こされる“なにものか”に当たるのか。
 これについては、青くなることで利益を得るものをまず考えてみよう。
 リトマス試験紙。赤くなれば酸性、青くなればアルカリ性が判るって、あれだ。中世期に活躍した聖リトマスが自らの思想に共鳴するかどうかを洗剤符という紙によって判断した(たまに金銀パールがでた。)ことに基づく、というような事実はないが、とにかくそういう理由で月を青くしたとする。と、この月が見える地域にとってはアルカリ性がなんらか利益を及ぼすことだと判断できるのだが、そんなことでホントに得をする存在なんてほとんど乾電池くらいしか思いつかない。む。となると青い月は乾電池にパワーを与えるということなのだろうか。となれば、青い月が出たら諸賢は電池がビルを昇ったり、人力飛行機を飛ばしたりしないよう注意しなければならない。
 バスクリンも青くなるな。月とバスクリンは風流な取り合わせだが、まぁ心配する取り合わせではあるまい。
 一般的な信号という考えもある。交差点に立っている信号機を思い浮かべるかもしれないが、ここで言っているのはもっと広く、安全のサイン信号としての青色を指す。こういう場合、心理学的にはむしろ緑色なのだが、青はシンボルとして安全を指すことが多い。つまりは青い月が照らす一帯は安全地帯である、と捉えるものだ。まぁ、もしこれを示すとするならば我々が心配することも無いだろう。
 税関系では青色申告なんてのもある。これはどちらかというと体制側におもねる表現だから、これが守られているということは税が搾り取られているわけだ。転じていえば、月が青くなるのは税の申告要求なんだとすれば、この現象はその近辺に住んでいる人々にとって恐怖すべきこととなる。
 こうしてみてくると、青は先述したように基本的には安全の色だから、たとえ月が青くなることがなんらか変質を起こすとしても、それが直接危険になることは考えにくい。問題なのは、それを青色申告の例のように体制側が用いる場合や、同様に体制側が、現状が危険レベルにあるのに、敢えてそれを隠すために青くする場合だろう。
 都会に似つかわしくない青空や、タイガースファンが飛び込むしか使い道の無い道頓堀が月のために青く見えるようならそれはなんらか自然現象の隠蔽と思ったほうがよい。

3.危険度レベル2・単に呼び方
 「青い。」というときの用法には、若いことに対して使われることもある。「あいつは青いやつだ。」なんて風に。
 では誰が誰に対して使われるかというと、この場合“誰に”というのは当然この稿では月を指すから、では主語の方は誰かということになる。数十億年の年月を生きてきた月をして青い、すなわち若いと言える存在など、そうそういるわけがなく、これはほぼ地球と断定して間違いなかろう。まぁ、月とほぼ同じ年齢を持つ地球にだってそんなことを言われたか無いような気もするが、往年のコミカル刑事モノであるトミーとマツにおいて松崎しげる(役名忘れた)は国広富之(同左)よりホンの少し早く刑事になったことを理由にトミーに“先輩”と呼ばせていたから、この僅かな差を理由に地球が月のことを「あいつは青いやつだ。」と言っているのかもしれない。
 危険度レベルが高いのは、上記したトミーが普段は弱いのに、女々しいことを咎められ、挙句に「トミ子!」と呼ばれると一転して大暴れをするという故事に基づいた考察だ。月が怒り出したら一体どうなるか。全く想像もできないような事態になりかねないのである。


4.危険度レベルMAX・月自体が青く発光する場合
 これこそ本稿で扱うべきもっとも憂慮すべき現象である。何故って、月は蛍ではないのである。天体である月が太陽のように発光するのだから、これはもう危ないこと限りなしである。
 そもそも太陽でさえ白色光だから表面温度は6〜7000度だ。これに対して発光色が青くなるということは10,000度〜実に50,000度なのである。月−地球間は太陽―地球間の距離の1/400しかないことを考えると、降り注ぐ熱量は軽く核爆発を超えることになるのだ。質量から考えてありえないとか暢気なことを言っていてはいけない。これはあくまで“そういう状況になったら”といいう時のことを論じているのであり、目の前に(目の上に)現実にそうした状況が来たとしたら事実はもうどんな屁理屈にも勝るのである。(来るという設定自体が屁理屈だという意見はこの際おいておく。)
 というのも、この段階になるともう“遠回りして帰ろう”という部分を“悠長に散歩することだ”なんてとらえるのはとんでもなくて、それこそ地球の裏側くらいまで遠回りしないと、照らされた部分にあるありとあらゆるものは蒸発してしまうのである。

   月がとっても青いから 七月六日はサラダ記念日

 訳の分かんないフレーズを呟く暇があったら、さっさと家に帰るべきである。





論文リストへ