ラジオ体操 影の苦労

藤野竜樹



 「ラジオ体操第一! ヨ〜イ!!」
 明朗な声とともに、軽快な音楽が流れ出し、朝の空気にのせて広がってゆく。曲に誘われた人々はその流れに合わせ、前に後ろに身体を動かす光景が、今日も日本に溢れる。学校に、職場に、いったい全国の何千箇所で行われているのであろうか。この体操のおかげで、今日も我々は眠気の残る体を再び始まる一日に耐えうるものにすることができる。全国一律に行われているこの行事は、日本の活力、健康、平和を保つのに確かな役割を演じているのだ。
 ラジオ体操の歴史は、逓信省の簡易保険事業が、アメリカで行われていた同運動にヒントを得て、昭和三年十一月に東京中央放送局にて放送開始したことに始まる。その後さまざまな改訂を経て、昭和二一年四月、第一〜第三として放送されて今に至る。数年前(平成十一年)久しぶりに「みんなの体操」が制定されたのは記憶に新しいところだ。
 最もポピュラーでかつテンポも良く、一つの運動が流れるように自然に次の運動に繋がる、名作体操“ラジオ体操第一”。トリッキーな動きが一見とっつきの悪い印象を与えるが、回数をこなすうちに味が出る“ラジオ体操第二”。ほとんどその存在は知られていないものの、より一層の体力増進を目的として生まれ、パワフルな動きが特徴的な“ラジオ体操第三”。“流れ”、“技”、“力”。三つの体操が持つそれぞれの特徴はまるで仮面ライダー1号からV3までの関係を思わせる。

 かく、国民的人気を誇るラジオ体操であるが、筆者はこの行事に対し、いつも疑問に思っていることがある。それはラジオ体操の特徴としてはあまりにも当たり前のことであるように見えるから、読者諸賢にはともすれば、却って筆者に対して疑問を投げかける向きもあるかもしれない。筆者の疑問、それは、
   ラジオ体操は何故全国一律なのか?
というものだ。
 これには少しく説明が必要だろう。現在全国一斉に行われているこの行事が、どこに行っても同じ動作を伴うこと、皆さんはこれに何の疑問ももたぬかもしれないが、良く考えるとこれは必ずしも自明なことではないのだ。というのは、ラジオ体操が国民に供給されるのは文字通りラジオを通してであるのだが、ということは、体操中にどう動くかという指示は音声のみによって行われるからである。江戸っ子は“ひ”と“し”の区別をつけず、渋谷を“ひぶや”、日比谷を“しびや”と発音するため、聞き間違えて困るという逸話があるが、かく日本語は聞き違いの多い言語なのだ。加えて、言葉で動作を指示するなどという不確定さを多く伴う行為によって情報伝達をしているにもかかわらず、現実は周知の通り完璧に同一の動作を行っているのだ。
 見本を見せていたからだろ。その突っ込みは当然だ。我々は幼少のみぎり、校庭に全員集合させられ、面と向かい合う位置に据えられた台上で演ずる体育教師と反対の向き(教師は反対向きにやってるから)に身体を動かすことで、現在にいたる伝統の萌芽を植え付けられたからだ。確かにそうなのだが、ではと問おう。
 その教師は、その動きを誰から教わったのか。
 現在では、体育大学というものが存在するから、その中で用意された課程の一つとして各教師が習得しているという認識で問題ない。だから現在の指導状況に関して特に疑問視するような点はない。だが、ずっと遡って、一番はじめにラジオ体操第一を立ち上げた教師達はどうだったのだろうと考えてみるのだ。
 彼らが現在の体育大学のように、一つところに集められて指導を受けたとは考え難い。全国数千に及ぶ学校と、数多の職場が対象(東南アジアの占領地域にまで押し付けていたらしい)なのだから、そこでの指導者を逐一集めるなど、昭和二一年という、戦時下であった当時の日本では不可能であったろう。
 筆者の一見愚かに見えるかもしれない疑問の真意がおわかりいただけたろうか。

 ここにおいて、ラジオ体操が現状のようになった道筋には、二つ考えられる。一つは、ラジオ体操開始から既に今と同じくあった場合、もう一つは、徐々に現状に変化した場合だ。
 ラジオ体操をはじめるにあたって末端が持っていた情報には、あらかじめ絵入りの指導書というものが配布されたことがわかっているが、筆者の調べた限りレコードなどの配布はなかったようだ(局所的にはどうか判らないが)から、前者の可能性は限りなくゼロに近い。配布された指導書は絵入りであるとはいえ、一区切りの動作に付したイラストは一つか二つしかなく、これを見てオリジナルの動作を想像して補完するなど、金田伊効の原画に動画をつけるのと同じくらい難しいだろう。(古すぎるよこの喩え...。)実際この説を採っているのは我々研究者の間でも少数派でしかない。彼らは、同時実行は音声以外の指令があったから可能だったのだと述べ、それがラジオとは別の“電波”によるものだと主張している。この“電波”(なんか毒電波というらしい)を全国にラジオと同時に流したから、全国民の身体は勝手に正しい動きをしたのだというのだが...。このいささか(というより、かなり)薄弱な根拠を提示する彼らはグループを結成している(白装束派と自称)が、その行動はといえば、たまにどこかの学会に現れては会場を占拠し、退去命令にも応じないあたりだけが目立つ、我々健全な研究者達にとっては困ったさん達でしかない。(ちなみに彼らはラジオ体操の中では上半身の後ろ反りをもっとも重要と考えているらしいのだが、これは彼らのアザラシ崇拝と関係があるらしい。)
 筆者を含む多くの研究者は後者の、徐々に正しくなっていった説をとっている。これは普通に考えてもっともらしいという単純な理由だけではない。というのも、ある民族学系研究者が、さる山間の小学校において、ラジオ体操第一の別バージョンが存在することを発見したからである。これは我々がもっとも馴染んでいる第一の別バージョンらしいのだが、のっけの背伸びの運動からして、すごく違う。身体を真上にグンと伸ばすという、字面でそれは同じなのだが、山国で鍛えられた彼ら児童の強靭な足首が生み出す強烈なスナップは、しなりつつ身体を後方に数mもジャンプさせ、腕から地面に着地、そのまま後方宙返りになってしまうというのだ(筆者は未見)。以下、観察した研究者の言によれば、「ラジオ体操第一が流れている5分間というもの、児童達は空中大跳躍と地中潜行を繰り返し、まるで巨大なバッタとモグラが校庭中を大暴れしているような幻想的な光景」だったらしい。カレイドスターを地でいってると思えば大きな違いはなかろう。とはいえ当然、この動作は非常な体力を消耗するようで、「体操終了後の児童は疲れて帰ってしまう」そうだ。とまれこの発見によって、研究者達の定説が後者説になったことは納得いただけよう。
(この驚くべき発見は、谷川派の流れをくむ同研究者らしく、隠れキリシタン研究から演繹することで為し得たという。明治維新後のキリスト教禁令が解除されてから明らかになった九州の隠れキリシタン信仰は、マリアを崇拝中心としてカラス天狗の天使が仕える“はらいそ”を理想郷と見立てるといったような、オリジナルの教説とは似ても似つかないものだったという。200年もひたすら秘匿された結果、独特の進化を為した宗教の発見は学会を驚愕させたが、この谷川民俗学を代表する収集例と同様に、外部から半ば隔離された地域を探すことが、独自の発展を遂げたラジオ体操別バージョン発見に結実したのだ。)
 筆者の調査研究をここに付加すると、今回の疑問はほぼ解消するだろう。
 ラジオ体操第一別バージョンの発見は、現在の状況が決して偶然でない、すなわちラジオ体操黎明期に行われた何らかの努力の成果であることが判る。さらに中央機関による大規模な斉一化の努力が払われなかったことをあわせれば、それがごく少数の人によって為されたと考え至る。
 こうした伝道師はこのように存在を仮定できるものの、実際に彼らが行ったであろう努力が大変なものだったことが予想される。というのも、普通の市民が、ある日ふらっとやってきた男(女)が、突然みんなの前でラジオ体操を踊り出したらと想像してみるとよい。しかも朝っぱらからのあのハイテンションと、加えて余計な思考を許さぬ断定的な指示をいきなりされるのだ。はっきり言って筆者なら相手にしない。人によっては気持ち悪がって石などをぶつけるかもしれない。こうした苦難に立ち向かってゆく彼を思うとき、筆者はある種預言者のそれを連想させる。旧約において彼らは同様の虐待を受けながらも、信仰を広めるために邁進することを止めない行動力...。彼らをそうまでして駆り立てるものは何だろう。
 だから実際、筆者がそうした伝道者の一人を見出したとき、正直驚きを隠せなかった。(ホントにいた! てなもんで。)
 その人、田中聖人と名乗るその人は、一見したところ普通の老人だが、良く観察すると、着やせする服の下はがっしりとした体つきをしており、肌の艶も健康そのものだ。「ええ。今でも毎朝体操をしていますよ。流石にみんなの前ではやらないようにしていますがね。」氏が好んでする体操は第二だそうだ。渋い。氏は当時のことをこう語る。「勿論ね、僕だって好きでやってたわけないですよ。」(氏は未だに若い語り口を忘れていない。喜ばしいことだ。)「でもね、やめようとすると、心のどこかにトレーナーを着たおじさんが出て来て耳元でささやくんですよ。『このまま息を吹きかけてもいいんだぞ。』って、そんなの嫌だから、ひたすら演じたんですよ。つらかったなぁ。」まるでイザヤ書の預言者エレミヤを思わせるではないか。だが、神から選ばれるならともかく、そんなキタキタ親父みたいな親父にうっかり見込まれたことを思うと気の毒でならない。「だから僕は全国を回ったんですよ。シロクマしかいないような北の果てで体操もしたし、スコールの叩きつける南海の大決闘でもやったことありますよ(意味不明)。」氏の苦労に思い至るとき、筆者は同情の涙を禁じえなかったのである。

 我々が普段何気なくやっているラジオ体操に対するふとした疑問から、筆者は田中さんのような献身的な努力が影にあったことを知ることができたことは非常な光栄であったというべきだろう。
 その後の調査により、田中さんのように他にも数人の伝道師がいることが判明した。彼らはいずれも恥ずかしいという感情を持ちながらも常に前線に踊りで、はつらつ・きびきびをモットーに踊りつづけたという点は変わらない。そうした勇気の源泉にキタキタ親父がいたかどうかはわからないが、そうした信念が、現在意外なところに残されているのを発見して、なんとなしに筆者は安堵したのである。
 彼らは今、“体操のおにいさん”と呼ばれている。





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