かぐや 光の真相

藤野竜樹



 源氏物語十七?“絵合(えあわせ)”。藤壺中宮の御前で、梅壷側と弘徽殿側が所蔵する絵を比較しあう話だが、その中で披露される絵に、竹取の翁、つまり、かぐや姫の絵がでてくる。ここではかぐや姫は、“赫奕姫”と表記されている。“赫奕”は、“カクエキ”とか“カクヤク”と読むため、後者をあて字としたのだろう。それにしてもこの字は、光り輝くことや、物事が美しく盛んな喩えに用いられるから、まさにかぐや姫には然り、というほかない。
 ただ、“赫奕”という字面が、筆者のイマジネーションを別のベクトルに誘ったことも確かである。


 そもそも竹取物語は、平安初期に出来た作者不詳のSF小説だ。民間の説話を題材にしているといわれるが、しっかりとした物語にまとめた手腕は、我が国最初の物語文学であることが信じがたいほどだ。爾来ずっと不朽の作でありつづけ、今でも(沢口靖子の妨害はあったものの)、その人気が落ちることはない。中でも、最後に帝の召を拒んで月に帰る場面や、特に冒頭、爺さんが竹取をしているとき、光る竹を切ってみると、三寸程の人が入っていた。という場面などは有名だ。
 竹取物語はその有名さゆえ、他の民話にも影響を及ぼしているようで、かぐや姫はウグイスの卵から産まれた“鶯姫”とする説話もある。かぐやは最終的に天に昇るから、鳥が本来の姿だろうという、かぐやの正体に対する論理的な追及の姿勢が読み取れるのは、興味深い。美しい姫の本質に迫りたいという、それは今にも通ずる強い動機であると思えるからだ。
 かぐやは一体どういう存在であったのか。古今の衝動に漏れず、筆者もこの点に関して興味を隠せない者の一人であり、以下において同研究史に一石を投じてみたい。

 かぐやが鳥類であったという古来の説は、筆者にはかなり説得力をもって受け取られる。だがそれは先達の論ずるような、単純に最終的に空に上がってしまうからという面からではない。だいたい空に上がるという属性だけなら、蝙蝠だって虫だって、水素入れたガヴァドンBだって上がる。筆者が注目するのは、鳥類の習性としての特性、“托卵”についてである。
 托卵とは、カッコウなどが他の鳥(鶯・百舌鳥・ホオジロなど)の巣に卵を産み、真っ先に孵化することで仮親に育ててもらうという習性だ。この、自分では育てずに他人に育ててもらうという行為が、そのままかぐや姫の物語のそれを思わせることは議論を待たないだろう。筆者が鳥類説に関心があるのもむべなるかな。

 着眼点1:かぐやの属する種は托卵する

 だがここに、筆者はこの物語に対して更なる着眼点を提起する。そこで、かぐやの養父となる“さかきの造(ミヤツコ)”が、かぐやを竹の中から見つけるまさにその場面に注目しよう。すなわち、竹の中にいたかぐやの描写として、
   三寸ばかりなる人いとうつくしうてゐたり。
   (三寸ほどの人がたいそうかわいらしく座っていた。)
とする記述にである。
 これはどう説けるだろう。一般にはこれに“三寸ほどの子供”と訳をあてているが、上記文をもう一度顧みてもらえれば、“三寸ほど”は認められるが、それが“子供”であるとは言っていないことがわかる。ということは、原文を忠実に解釈すると、この時点でのかぐやは、
   ちっちゃいけれど、格好は大人のまま
だということになる。1/15程度のフィギュアが入っているような状態が、この文の情景として正しいものなのだ。萌え? いやそれは議論の中核(にしたいけど)ではない。ここに重要なのは、かぐやの見逃せない性質の一つとして、

 着眼点2:かぐやは幼体が成体と同形である

ということだ。これが筆者をして“かぐやの鳥類説”を捨象する要因となった。というのも、現行の鳥類は、生後の一定期間を親(もしくは仮親)に依存することを前提として孵化するため、生れ落ちた時の姿が成体とは著しく異なっているからだ。(ホモサピエンスは幼形成熟と言われるが、それとも異なる事例である。)

 この着眼点2を満たす生物として現行の生物をあげれば、爬虫類や両生類がそれに近いだろうが、筆者は前述した着眼点1もあわせたある仮説をたてる。それはこの槁にあっては、後半のあっと驚く結論を導くリンクの役目でしかないのだが、読者諸氏にとっては、十分にインパクトのある説ではなかろうか。

 仮説1:かぐやは恐竜である

 もともと恐竜は卵から孵化した時点で、ほとんど成体と同等の形態をとっていることは、多くの化石が証明するところである。では恐竜が托卵するのかという疑念には、これはあくまでも少数説でしかないが、かの子育て竜“マイアサウラ”の巣のある化石に見つかった異種類の卵が、一種の托卵をされたのではないかと推理する説があることをあげておこう。元々マイアザウラの子育て説も、恐竜学の進展によって、彼らが従来言われていた爬虫類のような変温動物ではなく、自身の体長の大きさが高い保温機能を果たす意味での恒温動物だという説が定説化したことから発展してきたものであり、もしそれ(子育て)が恐竜一般の性質であるとなれば、現在の鳥類の性質から敷衍して、托卵を行う恐竜種がいても全く不思議はないのだ。と考えてくれば、上記仮説がグンと信憑性を増すことは納得いただけるところだろう。

 それにしてもと、ナンセンスな思いの拭いきれない読者諸氏の言い分はわかる。筆者とて、一千万年前に絶滅した恐竜とかぐやを結びつけることに、無理を感じていないわけではないのだ。筆者だって常識人だから、そのタイムラグが隠し切れない大きなものであることくらい承知しているつもりだ。だから、この時間を埋めるべく次の考察を進めなければならない。

 ここで、再びかぐやについてよく知られている性質を再掲しよう。

 着眼点3:かぐやは光り輝く存在である

 上記はかぐや姫の特徴として押さえておく事が不可欠なものの一つだ。ここに関連して考察したいのは、前述もした、かぐやが“赫奕”と表記されたことの真の意味である。すなわちここにあてられた赫奕は、なまじ“赫奕”という述語に捕らわれないほうが良いかもしれないからだ。ならばということで“赫”を解字すると、これは“炎のように真っ赤なさま”であり、同様に“奕”は“かさなる”こと。すなわち赫奕姫とは、“己の身を灼熱化させて生を持続する(かさねる)姫”であるとも解釈できる。

 着眼点4:かぐやは燃えている

 これは仮説1を巻き込むことで、いよいよ核心に近づく。というのも筆者は、“燃えさかる恐竜”というイメージに至極良く該当するものを想定できるからだ。それは火を喰らい、火とともに生きる伝説の存在。
  サラマンダー(火トカゲ)
 サラマンダーとは簡単にいうと火を噴く竜だ。それは、現在でこそ姿を見ることはないが、化石などという数千万年前の悠久の存在ではなく、竹取物語が成立した平安初期と比して著しく時代を隔てない中世ヨーロッパにて伝承された生物だ。一部にはドラゴンとも称され、勇敢な王が立ち向かった対象としてとても有名な存在。それがサラマンダーなのである。
 サラマンダーが恐竜の子孫である可能性は、一般に知られている竜の形体が、現生生物種のそれよりも、いわゆる恐竜と総称する竜盤目や鳥盤目らの方にずっと近いことをあげれば十分だろう。更にいえば、サラマンダーが托卵をその生態上の特徴とするであろう事は想像に難くない。彼らが我が子である卵を愛撫したとすると、気の毒なことにそれは、卵焼きになってしまうからである。

 仮説2:かぐやはサラマンダーである

 いよいよ正体を現した本稿の明かすかぐやの驚くべき秘密がこれだ。本仮説を嗤うものは、これから展開する論理を前にその顎を閉じることだろう。驚くべきことに竹取物語には、仮説2を前提とするからこそ得心する謎がいくつもあるのだ。

 謎の一つ目は、養い手であるさかきの造の身代が、かぐやを引き取ったときから富み栄え出したことだ。従来はこれに対し、かぐやが家に幸福をもたらしたという程度の昔話的なおおらかな認識くらいしか持っていなかったが、今やそれには納得いく説明がつく。というのも、かぐやの纏う炎は尋常なレベルではなく、“光り輝く”ほどであるから、その熱量の恩恵を十分に受けることができる同家の諸領内は、年平均気温の著しい上昇を想定できるのだ。となれば、これを翁が利用しない手はない。同地を耕作すれば、確実に当時の日本では例外的なほど収穫量を増大させる(二毛作三毛作すら可能)からだ。もし人を雇って耕作させても、痩せさらばえていた土地が転じて同家に富をもたらすのに時間はかからなかっただろう。

 さて、一般の女子と同程度までに大きくなったかぐやの美しさは、(それこそ正視できないほどに)光り輝く美しさを持っていたから、当時の男達をひきつけてやまなかったのだが、その中で五人の有力な貴族からの求婚があったことは有名だ。この五人の求婚者に、かぐやは無理難題をふっかける。“仏の石の鉢”,“白銀の根、黄金を茎、白珠を実とする木の枝”,“燕の持つ子安貝”といった奇天烈な品々は、物語上一見唐突な印象を与えるのだが,そんな謎も現在では氷解する。というのもこれらに混じって求婚者のうちの一人、大伴御行(おおとものみゆき)に対して要求するのは“龍の頚に五色に光る珠”であり、更に阿倍御主人(あべのみうし)に対して欲するのは、なんと“中国にある火鼠の皮衣”なのである!!
 これらがかぐやの正体と関連して提示されたことはもはや疑う余地がない。

 最後に提示する証拠は、物語のクライマックスとも連関する。というのもこの謎は、かぐやを迎えに来た者の正体に関することだからだ。
 ・子(ね)の時ばかりに、家の辺り昼の明(あか)さにも過ぎて光りわたり
  (夜中なのに、家の周りは真昼よりも明るくなり)
 ・心さかしき者、念じて射むとすれども、ほかざまへ行きけれ
  (勇敢な者が、(恐ろしさを)堪えて(矢を)放とうとしたが、あらぬ方向へ飛んでいった)
 この二つの文の意味は、本稿をここまで読み進めてきたあなたにとってはもう、謎とも言えないレベルのものだろう。そう、お察しの通り、上空に現れた成獣のサラマンダーの威圧感たるや、途轍もないものであろうから、当然戦闘意欲は削がれるし、よしんば天を焼き尽くす業火を身に纏うその姿に矢を射ったとしても、木製の矢など途中で燃え尽きてしまうのだ。
  あれも戦はで、心地ただしれにしれて、まもりあへり
  (勇ましく闘うこともなく、ただ呆然と、互いに見つめあう)
う〜ん。むべなるかな...。
(サラマンダーに関して少し付記せねばなるまい。サラマンダーの姿形には、上記“火吹きドラゴン”とは全く違った説も存在する。というか、実を言えば文献的にはそちらの方が主流である。それは、サラマンダーがまさに“火トカゲ”であり、身体から火を出すものの体長は10〜15cmたらずで、溶岩の中とか竈の中に生息しているというものである。一部12世紀の文献には上記幼形成熟とも反し、卵→幼虫(芋虫形)→繭→成体(火トカゲ)、という成長過程をとると記しているものすらある。が、体長に関してはともかく、どう見ても爬虫類のサラマンダーが発生学的に見て芋虫状の幼虫時期を持つとは考え難く、幼虫説にはどこかで誤解が混じっていると思われる。とまれ、今回は論理展開上、上記のような“火吹きドラゴン”形状をサラマンダーのそれとして採用した。年初に封切った恐ろしくつまらない映画『サラマンダー』の影響もある。)


 さて、かぐやの正体を探る上では、月に帰るという属性も重要であるから、これについても少し触れておく。
 サラマンダーの一族が月に住んでいたかどうかについては、月探査が進んでいない現在では、直接実証する証拠は見つかっていない。だからここでは地球上から観察される現象を提示することで満足しよう。すなわち筆者は、天文ファンによる月面観測でごく稀に報告される、月面上の発光現象が、彼らの生存を示しているのではないかと考えているのだ。
 ただ生物学的に、サラマンダーが真空地帯である月に生息できるのかという問いについては、“困難ではあろうが不可能ではない”と答えたい。というのも、地上人の下に現れた成獣のサラマンダーは、青色発光しており、恒星の温度対応表に拠ればこの場合のサラマンダーの外皮表面温度は、低く見積もっても1300度を超える。この温度では、化学反応している酸素分子はプラズマ化し、単数としての酸素原子に還元してしまうため、この段階の彼らは酸素呼吸をしていないことが推測されるのだ。だから、少なくとも成獣のサラマンダーが、空気のない環境で生存できることは間違いないのだ(真空かどうかはわからないが)。そう考えると、体内温度がそれほどまでに高くならない幼体の頃には、通常の生物としての代謝機能、すなわち酸素呼吸ができる、もしくは必要であると考えられ、わざわざ地球に里子に出す真意はそこにあるやもしれない。
 とまれ、中国では月の中に、嫦娥(ジョガ)という美人がいるという伝説もある。サラマンダーが今でも優雅に月に遊んでいると考えることは、ひいてはかぐやや嫦娥にも遭えるかもしれないことが期待されるのであり、再びかの天体にたいするロマンをかきたてるではないか。


 かぐや姫が伝説の火吹き竜・サラマンダーであるという驚くべき考察をしてきた本稿の最後に、かぐやが翁に見つけられた時に入っていた竹の種類について、少し言及しておく。これは、その竹が奇しくも、作者のこれまでの考察の努力を一言で表明するかのような名前を有するからであり、だからこそ当時の日本には自然状態で生存していないとしても、筆者はこの想定を確信し、かつラストを締めくくるに相応しいと判断したのである。
 筆者にそれほどの自信を与えるその竹の種類、それはほぼ確実に、妄想竹なのである。





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