帰ってきた男

加藤法之



 「誰に断って帰ってきた!」
やくざな放蕩息子に親父の一喝があたりに轟き、お膳が通りにまで吹き飛んでくる。“帰ってきた”という言葉にはそんな下町の光景が付きまとうものだが、この言葉に対するそんな通りいっぺんの印象の似合わぬひともいる。いや、ひとと言ってしまうのはいかがなものか、我々はこれから話題にしようとする彼のことを、ヒーローと呼んでいるのだから。
 高度成長経済の只中にあった昭和46年4月。列島改造とまで豪語された国土全般にわたる大土木工事や、効率優先で環境汚染など意に介さずに創業を続けていた企業ばかりだった当時の日本は、その反動として再び蘇った怪獣達の危機にさらされていた。実にほぼ一週間に一度に及ぶ割合で怪獣は姿を表し、悠々闊歩して街に繰り出しては、己の存在を誇示しまくったのだ。手当たり次第に破壊と業火を撒き散らすそんな怪獣たちに対し、人々はただ逃げ惑い、絶望に打ちひしがれるばかりだった。だがそんなときだ。人々に一筋の光明が舞い降りたのは。そして無力な彼らに怪獣の吐いた火炎が迫ってまさに絶体絶命となったそのとき、己が身を呈して彼らを庇った光の巨人。一瞬後、九死に一生を得たことに気付いた人々は、自分達を救ってくれた彼が誰かを見留めて、こう呟いたのである。
   帰ってきたウルトラマン!
 ここに現れた、銀の全身に赤のストライプ、40mの身長を持つ彼をこう称するのは、一般には正確ではないと言われている。というのも、彼はそれ以前我々の前に現れていたウルトラマン、その時点をさること数年前、宇宙恐竜ゼットンとの戦いの後、迎えにきたゾフィーと共にウルトラの国に帰ったウルトラマンとは違うウルトラマンだからである。まぁ俗な言い方をすれば、「帰ってきてないじゃん。」というわけだ。
 今回問題にしたいのは、上記のように明らかに別人であるに関わらず、ではなぜこのウルトラマンを“帰ってきた”という名前で呼ぶようになったかということである。そこに何か深いわけがあったのではないか。我々が単純に見過ごしてしまいがちな“帰ってきた”には、考察すべき理由があるのではないだろうか。

 この問題を解く糸口は、当時の人々にウルトラマンがどう思われていたかを類推することが重要になるであろう。
 まず、ホントに同一視していたのではないか、とする説を考察しよう。
 最初に現場に居合わせた者がそう呼ぶのは、確かに無理はない。近くであれば見上げるしかないだろうから、以前のウルトラマンと見違えたのかもしれないという具合にだ。が、それ以降ずっと彼のウルトラマンが同一人物かどうかを判別し得なかったということが起こりうるのであろうか。であれば彼以降起きたヒーロー交替劇も、同一人物と見過ごされたままだった可能性もあるではないか。人々が逃げ回っている間に、必死で戦ってくれている彼が、何時の間にか頭に2本の角が生え、胸によろいを着け、カラータイマーの形が変わり、あろうことか髭まで生えているのだ。
 親しい人とか、恩人に対して、それほどの変化にさえ人々は気付かないなんてありうるだろうか。同僚は残業を三ヶ月続けただけで三歳の娘に「パパじゃない!」とか言われるのに!!
 現実的に言って、やはりこの考え方は無理がある。ウルトラマンを一番観察していたのはなんといっても、前回来日したウルトラマンの戦いを克明に記録したであろう番組制作者達であろうが、本ウルトラマンの記録を同様に放送する際に“帰ってきた”を冠しているのは意図的である考えるのが普通だろう。放送が1年にわたるなかでタイトルを、
   新しかったウルトラマン
と訂正しなかったことからもそれは明らかだ。
 同一視説はこうして打ち消される。

 まあ実際普通に考えれば、当時の人々が“ウルトラマン”を、“ゼットンにやられて帰ってやんのよ”の彼の持つ名前ではなく、“そういう役名を持った人達の総称”として捉えていたとするのが妥当だろう。これは類似作品である仮面ライダーシリーズにおいて、Xやブラックなど個別に名前を持つ彼らに対して呼びかける場合いつも「仮面ライダー。」と言われていたことに類似するものだ。
(そう言えば、555では仮面ライダーと呼んでいるのを聞いた事がない。ちなみに関係ないが、〒555の住所は“大阪府大阪市西淀川区”らしい。勝手に変換してくれるIMEは物知りだが、いささかお節介だ。)
 この見方をすれば“帰ってきた”なる言葉は、人々がウルトラマンを渡り鳥のようなものと捉えていたと見ることができる。大陸に南国にと、季節によって住みやすい環境を求めて日本にやってくる渡り鳥に対して我々は、(自分の家の軒先に巣づくりする燕を見て述べる場合はともかく)それが別の個体であると弁えているにもかかわらず「ああ、今年もそんな季節なんだ。また帰ってきたなぁ。」と呟く。その台詞と、“帰ってきたウルトラマン”というのは同じ意味合いを持つと考えるのだ。春になると軒先に巣を作るウルトラマン。平和な光景として微笑ましいではないか。
 だがしかし、これで謎が大団円になるかというと、そうでもない。というのは、渡り鳥のように個体を選ばないなら、同じく期間を開けて来日したウルトラマン80やウルトラマンガイアの時にも“また来たよウルトラマン”、“戻ってきちゃったよウルトラマン”とか、挙句は“元祖”、“リターンズ”、“RELOAD”、“R”、“S”、“SS”、“♯しゃーぷっ”、“もーっと”、“どっかーん”など、考えられるありとあらゆる再帰名詞が付加されてしかるべきなのだが、そうした様子は見られない。そうであれば、ウルトラマンが役名という説は、シリーズを通しての大意としては間違ってはいないのだが、敢えて“帰ってきた”を冠された事実を前にすると、この説だけでは説得力が弱いように思える。この“帰ってきた”はやはり、帰ってくる人が以前と同一人を指している“帰ってきた若大将('81東宝)”に近いものと見るほうが自然だろう。すなわち“帰ってきたウルトラマン”の“帰ってきた”に当てはまるのは、“帰ってきたウルトラマン”のときに帰ってきたウルトラマンだけだったという事が結論されるのである。ああややこしい。

   ランドセル 買うより先に ウルトラマン

 子供にランドセルを買わせようとデパートに連れて行くと、いつのまにかソフビのウルトラマン人形を買わされるという句だ。この一句が単なる川柳ではなく、三月を表す俳句とされているのは、ウルトラマンが初春の季語になっている(その頃になると、何故かウルトラマンは商業的に活発になるから)ことを示すが、これはウルトラマン来日が頻繁だったことを認めることで納得できる文化だったことが今にして判るというものだ(「これが季語!仰天俳句'05」より)。
 余談はこのくらいにして、あらためて考えてみよう。どうも帰ってきたのは“あの”ウルトラマン個人であり、しかも“渡り鳥ほど頻繁に地球にやってきていた”のだった。これは一見振り出しに戻ったように見える。そもそも、怪獣を倒すという目的での来日は、ほぼすべてが映像として収録され、現在も見られる形のフィルムになっているが、ではそれ以外、フィルムに修められていた以外にそれほど頻繁に来日していた理由はどこにあるのか。どのような目的でそんなに来日していたのか?
 我々はその疑問へのアプローチを、同じように渡り鳥のごとく年二回のレベルで我々の前に姿をあらわすヒーローを見ることで行おう。それは誰あろう。全部で48作もある“寅さんシリーズ”の主人公・車寅次郎だ。盆と正月、必ず柴又に帰ってきて、そこで織り成す庶民的な笑いとちょっぴり物悲しい恋の話、48作あっても、故人が健康であればもっと見られたのにと嘆かずにはおかないほどの人気作品が、寅さんシリーズだ。
   ウルトラマンは香具師である
ここから一気に上記仮説を立証するのも、今の筆者にはやろうと思えば可能だろうが、高倉健氏より寡黙なウルトラマンにそうした職業で必要とされる口上を期待するのは流石に酷であろうから、この仮説にはどうも説得力がない。
 では、寅さんはどういう目的で帰っているのか。寅さんに見る行動パターンはとても単純だ。
  (a)旅先でのマドンナとの出会い → (b)柴又への帰郷と再開
   → (c)失恋別れ → (d)旅立ち
といったところで大まかに間違いなかろう。ここに、寅さんを動かしているものが恋愛であることは論を待たないところだ。

 してみると、帰ってきたウルトラマン本人の、放送以前に彼が頻繁に来日していた理由もおぼろげに推測できる。それは、
   ウルトラマンの地球来訪は失恋と関係がある
というものだ。ここに、宇宙のどこかでウルトラ族の女性と出遭った方向で考えるのも一興だが、やはり地球の女性に焦点を絞っての考察のほうが面白い。映像中でも地球人の姿のした時は郷秀樹という非常にハンサム(元々モデルだった)な青年だったから、以前来日していたときもその容姿を活かして女性と華々しい交際をしていたのだろう。だが、あるところで彼はどういうわけかその恋愛を断念し、ウルトラの国に帰っていくのだ。そしてこの時、もとの姿、すなわちウルトラマンに戻って帰っていく時に、空を飛び去る姿が多くの人に非公式に目撃されていたに違いない。そしてだからこそ、始めに述べたような昭和46年にヒーローとして我々の前に公式に現れたときにも、人々は一般名詞であるウルトラマンの前に、形容詞としての“帰ってきた”を付加したのだろう。だから正式には人々は、こう述べていたに違いないのである。
「(ああ、また失恋して)帰ってきたウルトラマン↓」

 最後に、更に穿って、ではどうして彼は恋愛を断念したのだろうと考えてみる。筆者が思うにそれはやはり彼の生来の優しさというか、地球のガールフレンドたちへの遠慮だったのではあるまいか。三分しか地球にいられないという理由に代表されるような、自分が宇宙人であることを斟酌した結果なのではなかろうか。だからこそ彼は、一幕の恋の終わりに、明けの明星が輝く頃、西の空に飛びさりながら、きっと心の中でこう呟いているに違いないのだ。
   俺が異端じゃお嫁に行けぬ 黙って行くんだ○○よ





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