Q太郎の陰謀

東山錦一



 オバケのQ太郎は、現代日本語を話す。アメリカ・オバケであるドロンパも、日本語を話す。考えてみれば奇妙なことである。なぜ日本語を話すのか?
 「オバケ世界では日本語が公用語となっているから」その可能性はゼロではない。だが、世界に言語は数多く、またオバケの世界にも言語はあるであろうに、Q太郎たちにとっての第一の言語が日本語であるとはちょっと考えにくい。
 実際、O次郎は日本語を話せない。ただ、「バケラッタ、バケラッタ」と繰り返すのみである。それでもQ太郎とは何らの支障も無くコミュニケーションがとれている点からみて、オバケは独自の言語を持ち、日本語は第二、第三の言語として習得しているに過ぎないであろうことを推察できる。その、オバケ独自の言語が「バケラッタ」として表れていると理解するのが自然であろう。

 では、そのオバケ言語とはどういうものなのだろうか。「バケラッタ」のどこに意味が込められているのだろう? 人間の耳にはどんな場合にもバケラッタとしか聞こえない以上、意味を込め得る、すなわち違いがあり得るのはわずかな発音/音声の差異か、イントネーションしかない。では、O次郎は、音声またはイントネーションの差異によって「おにいちゃんがいない間にお客さんが来たよ」といったような事柄を伝えているのであろうか。地球はプレイン・ヨーグルト、じゃなかった、「地球」は「バケラッタ」で、「ありがとう」は「バケラッタ」だとか?(「バケラッタ」の違いをお聞かせ出来なくて申し訳無い)
 原理的にはそのような方法で情報をやりとりすることは可能である。コンピュータのやってる通信なんて、そんなもんだし。基本である「バケラッタ」に変調を加えて、情報を乗せればよい。
 しかし、この場合には、その情報伝達手段が同時に自然言語でもあることに注意が必要だ。つまりO次郎の用いる言語は、そのまま彼の思考や記憶のやり方を表している。O次郎が「バケ」によって来客の人相を、「ラッタ」によって来意を伝えているのならば、彼は「バケ」と「バケ」との違いによって物事を考えていることになる。
 そのようなことははたして可能なのだろうか? 「バケがラッタだから、バケがバケしてバケラッタ」というような思考は出来るのか?
 やはり、事物に名前を与えなくては思考するのは困難だろう。O次郎が変調の具合によって思考しているとは考えにくい。O次郎が自らの内に持っている言語は「バケラッタ」ではないはずであ
 とすれば、Q太郎とO次郎との会話は、「バケラッタ」によっているのではない、ということが分かる。人間の可聴範囲外の音波、すなわち超音波、もしくは電磁波を用いて会話が行われているのであろう。
 ならばなぜ、必要も無いのに「バケラッタ」と言うのか? ひとつには、オバケ語の発声に伴って、つい口から出てしまいがちな音声が「バケラッタ」である、と考えることが出来る。O次郎は未熟ゆえ、バケラッタの発声を抑えることができないのだ、という解釈である。だが、それだけだろうか?

 ヒントはQ太郎とP子、あるいはドロンパらとの会話にある。彼らはオバケ同士であってもオバケ語ではなく日本語で話している。ところが、オバケ語が人間に感知できないところでやりとりされるものであるとすれば、彼らの会話が聞こえている通りのものだとは限らないことが分かる。「やあ、こんにちは」とか言ってるようで、実は秘密情報をやりとりしているのかもしれない。(ドラスニアの謎言葉のようなものだ)
 ここまでくれば、バケラッタの役割も明らかだ。すなわち、バケラッタの発声は、真に情報伝達に使われているオバケ語の存在をカムフラージュするために行われている。ふつうの日本語の会話ができればそれが理想だが、幼いO次郎にはまだ出来ないので、代わりにバケラッタと言っているのである。
 こうまでしてオバケ語の存在を隠すQ太郎が何を目的として活動しているのか、それは重大な問題だ。政府あるいは公安は、直ちにオバケ語のモニターを開始すべきである。



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