ペド複雑系科学概論

加藤法之



 常に新しい発見をもくろむ江戸家弄恋にとって、一つのことに費やせる時間は限られている。前の日に夜遅くまで従事していたその作業を再開するにあたり、彼はそれでも細心の注意を払ったつもりであった。虚ろな意識の中でかろうじて記述していたパラメータを解読しながら、彼は正確に前の日の作業を追確認していった。彼が凝視するモニターの中で“彼女”は順調に成長し、何度となくあった成長の危機にもめげることなく、やがてその追実験は最終段階に達した。
 江戸家の連夜の苦難の末にモニターに映し出された最終結果はしかし、江戸家の意図する形態−彼が昨深夜に眠い目を擦りながら何とかたどり着いた姿−とは著しく異なるものとなっていた。
 モニターの中の少女は、“プリンセス”ではなく“木こり”になっていたのだ。

「私はその時、一体何が起こったのかよくわかりませんでした。」後になって、江戸家は時々鈴虫の声を真似ながら、そう語った。「前の日に立派に成長してプリンセスの威厳を湛えていた私の娘が、その日にはいきなり筋骨たくましい女性として成人してしまったのですから。」
 いやしくも科学を生業としている江戸家は流石にその不思議をそのままにはしておかなかった。彼は机の引き出しからテクノボリスとPOPCAM(どちらも当時の美少女科学?雑誌)を引っぱり出し、再度パラメータのチェックを試みた。○秘コーナーとして扱われていた攻略情報をやはり今回の追実験もしっかりと踏まえており、一瞥したところでは、彼の目にはほとんど同じにしか思えなかった。「これだけのフラグを立てればバッチリさ!」と、妙な自信を漂わせる同コーナーの締めの言葉が彼を更に困惑させる。彼は最後の手段として、前の日深夜の作業と今回の作業で行った行為をすべて抜き出し、UNIX上でdiffをとってみた。
   # diff 前の日コマンド 今日のコマンド (リターン)
   前の日のコマンド
   → 25l  皿洗い
   今日のコマンド
   → 25l  木こり
な! ウインドウに表示された結果に江戸家は呆然とした。これだけの。教育費が足りなくなったから、健康パラメータを下げてまで強行したこのたった一回の“木こり”のアルバイトが、5年後の進路に影響を与えたというのか!!
 初期値依存性、俗にいう“マダム・バタフライ効果”の発見の契機となったエピソードは、上記のようなものであった。


 本年発のアニメ作品でもっとも注目されたのが“ラブひな”であることに異論はないだろう。各アニメ雑誌を総なめにし、さくらの向こうをはったというのは実際かなり凄いことで、大々的に売れた新規美少女に恵まれなかったここ数年のことを思えば、美少女研究者としてこうした傾向は喜ばしいことではある。が、筆者個人の見解をいうと、あの作品はやはり類型にすぎたという印象が強い。本研究でもよく取り上げるさくらとかルリとかが、どっかの系列に属することは間違いないにもかかわらずそれを押し通す潜在パワーがあったことに比べると、ラブひなの登場人物達は影が薄かったように思う。基本的にマガジンの連載は路線を明確にするため、売れるのだが逆にぶっ飛んだものが出にくい。このため、アニメにしても展開がその場流しの使い捨て雑誌のようなエピソードばかりになり、記憶に残りにくいのだ。あした天気になぁれ、なんて大失敗だったし、金田一少年にしても3年近くやってたのに、これだ、という話は無かった(でしょ)。GTOは結構面白かったが、三石が驚異的に巧かった(端役のオタク役の古谷徹との絡みは絶賛!)ことや、製作がスタジオぴえろだったこと(この会社はレベル高い。オリジナルもまた作って欲しいところ。)などが良かった要因だと思う。(終わって残念。)ラブひなみたいな作品は絵さえ良ければ話は二の次なのだろうが、如何せんラブコメで半年というのは短すぎた。製作側が原作の絵をつかめないうちに終わってしまい、ある作画監督の回は絶対に見逃すな、というような話は結局出なかったのだ。(この点、CCさくらも本当はちょっときつかった。)類型的だから描き分けはされていたといえばそうなのだが、筆者には別の番組のキャラクターがお面をかぶって演技しているように見えていた。
 辛口なことを言っているが、人気が出たことは紛れもない事実だ。更にラブひなのような、多人数の美少女をてんこ盛りで出すという傾向は最近、それが成功するとしないとにかかわらず多くなってきているので、そうした類型性がどのようなメカニズムを持っているかを明らかにすることは意味があると考える。それは複雑な美少女界の中に、ある種の秩序を見いだすことと捉えられるのだが、今回の論文はだから、そのあたりにテーマをおいている。


 美少女の気まぐれは、俗に言われるように秋の空と同じように千変万化であり、ころころと変わるそれは非常に魅力的な表情を向けてくれていたのにある瞬間から突然怒り出すなど、対峙する研究者達を非常にとまどわせるものの代表と、ずっと思われてきた。そうした彼女らを記述する手段としては、以前は16頁読み切りの恋愛漫画が主流だった。というよりそれくらいのものであった。それは研究者の技量によっては非常に的確にその様子を描き出すことに成功していたが、元来絵心のない大部分の研究者達にとって、鮮やかに美少女を描画してゆく一部の研究者との狭間には、渇望しても適わぬ才能という名の壁が存在していたのだった。だがそうして描いた漫画にしても、起承転結やちりばめるバラなどの約束事の上に成り立つ以上、やはり制約があったわけで、如何に恵まれた才能を持つ研究者達とて、そうした束縛から自由というわけではなかった。
 コンピュータの急速な発達は、そうした頭打ちの状況に天啓のごとく現れた画期的な“研究道具”であった。漫画のようにストーリーが決まった上をなぞる一律の美少女ではなく、コンピュータの中では、複雑な美少女のあらゆる表情を垣間見ることができる。コンピュータの中でなら、うっかり「太めだね。」と口走ってしまい殴り倒された(グーで)筆者のような悲劇もやり直すことができる。研究者が飛びついたのも無理からぬ事であった。
 コンピュータによる美少女検証はこうして急速に広まっていったが、その多様な表情を探るうち、研究者達のある者はそこに、何らかの法則性があるのではないかと考える者が出てきた。実際そこでは、彼女が研究者に会う前に行ったであろう身だしなみのポイントを的確に当てることができればその日は機嫌が良いであろうし、約束を忘れてすっぽかしてしまえば口もきいてくれなくなるという現象が見いだされるのであり、全く一貫性のないように見えた美少女の性格にも、人智の未だ思い及ばぬ隠れた法則があるのではなかろうかと考える研究者が出てくるのはいわば必然だったのである。
 美少女の気まぐれという複雑系の中に共通の法則を見いだし、できればもてたいなぁ。
 ペド複雑系科学は、こうした動機から始まったのである。


 江戸家弄恋はその後も何回となく研究を繰り返し、“普通の主婦”、“戦士長”、“シスター”、“出戻り”などが、ごく微小な違いから起きてしまうことを発見した。そして彼はこの実験がどんなにコマンド操作を同じくしても、“武者修行”に出たときに出現するモンスターまで同じくすることはできないのだから、その違いが徐々に大きな開きになって不良化し、家出してしまうことにもなりかねず、つまり結局のところ予測不可能であることを突き止めた。(それがどのくらい小さな違いだったかというと、「どうしてもプリンセスにならないんだよこれが。」と悔しそうに語る彼の言葉を示すと判ってもらえるだろうか。)
 江戸家はこの結果を、初期値が鋭敏に美少女を変えてしまうことから“カオス(直訳すると【思春期】)”と名付け、研究成果を子育て専門誌『父』に発表した。普段“引きこもりの息子には押しの一手”とか、“茶髪にしてきた娘に対抗する、50歳からの弁髪”などの記事が主流の論文誌にいきなり“プリンセス”,“木こり”なんて単語が躍ったのだから、読者がとまどうのも無理はなかったのだが、実際彼の研究が正当に評価されるのはこれでかなり遅れたといえよう。
 彼のこの研究が示したのは、美少女の成長の仕方は完全に決定論的であるにもかかわらず、その結果が予測不可能になってしまうということだ。旧来美少女の不可知性はつまるところ量子力学に言うハイゼンベルクの不確定 性 原理にのっとると言われていたのだが、この研究は、そんな大げさな論理を待たずとも、美少女の機嫌を直すことが至難の業であることを示したのであり、そうした点は評価されて良いだろう。
 江戸家の論文によると、コマンドに対する微動性によって美少女はいろいろな職業に就くことができるが、それらを更に総括的な空間座標にプロットしてみると、それらは“プリンセス”の周りに付かず離れずの関係を保ちながら配置されるのだという。「それはあたかも究極の目標、“プリンセス”の周りを漂っているように、私には感ぜられた。」(『父』'83年6月号P128)彼はこのように、美少女の振るまいを全人格的観点から捉えたときに“プリンセス”がその運動の中心をなしていることから、これを「少女の憧憬が“プリンセス”にある。」と捉え、こうした中心点を回るうち、「少女達はのびやかで、しなやかで、高らかに、涼やかになる。」と述べている。先駆的な彼のこうした実績を讃えてその後、この“決定論的ではあるが非理性的な心の動きを“マジカル・アトラクター”と名付けた。
 ちなみに、少女の夢を引きつけるアトラクターとしては近年他にもいくつか見つかっている(“かんごふさん”、“お花やさん”、“およめさん”など)が、研究者には発見時、江戸家にあやかって「プ〜ルルンパトレーヌっ!!」と叫ぶ習慣があるという。

 江戸家の論文は前述のように、掲載先のマイナーさからしばらくは眠ったままになっていたが、嗅覚の鋭いオタク達がめざとく見つけるのは必然といえば必然だったか。(...失言、研究者ね。)美少女生態学者のオバート・メイは、自身の研究分野で掴みかけていたカオスの概念を既に江戸家が発見していたことに驚嘆し、江戸家の成果を伝言板(ぷに系)で宣伝しまくったのだ。そしてこのかいあって、諸学問を越えて美少女の複雑系を科学する“ペド複雑系科学”は発展していったのである。


 さて、思春期のカオスについては、実は既に大昔のアダチ・ポワンカレによって“三角関係問題”として定義されている。これは一組の男女間の恋愛はニュートンの方程式に従う(蛮勇引力の法則:一昨年のペド物理学参照。)のに、別に一人が横恋慕してきただけで次週の展開に全く予測がつかなくなるというものだ。アダチはこの研究に生涯を費やしていて、つい先だっても水素分子が及ぼすN角関係問題についての膨大な著作を書き上げており、その成果はますます上がっているといえる。が、如何せんアダチの手法は前述の恋愛漫画の方法論を踏襲したものである。その姿勢は、“ラブ・コメ”という概念を生み出すなど時代を先取りしていたものの、描く美少女がみんな同じ顔だったため、他の研究者がより自由に美少女の様態を研究するにはやはりコンピュータシムレーションが可能になるのを待たなければならなかったのである。(注.筆者は“シミュ”とは書かない。“シム”の方が俗でいい。)
 しかししてみると、コンピュータの名称に電子計算機という称号が似合っていたENIACの時代から、美少女研究は始まっていたと言っても過言ではない。そもそも美少女シムレーションの基本的パターン“セル”からして、コンピュータの発明者である煩・ノイマンが考案しているのだから。セルは美少女の最小単位として設定され、その中に美少女の特徴をパラメータとして設定し、連続計算させることでその経時変化を見守るという、ストーカーみたいな実験をする。パラメータには様々な手法が試みられたが、もっとも効果を上げたのはジョン・コンデイイの“ライム”だろう。ライムはセルに様々な笑顔を見せた美少女デザイン画のポスターを置く。そしてその周りに4〜6人の人が集まると、それは次世代を担うラインとしてオタク市場を賑わせ、0〜3人、また7人以上集まると、注目されない、もしくは人気がありすぎて夜中にぶん取られてしまうので次の日には残らない、という仮定を立てるのだ。すると、デザイン画を巧みに配置することによって人気が出るかでないか、ぽっと出て消えるか持続するかなどの様々なパターンが見られるようになり、まるでそこに現実があるかのようなセル美少女の振る舞いを観察することが出来るのだ(アニメ?)。ライムは次世代美少女の傾向を知りたい研究者たちによって様々に実験が繰り返され、そこでは悲喜こもごものドラマが繰り返された。中でも成功したのは“グライダー武蔵”である。これはセルをあるパターンで配置すると美少女が定期的に創出されるという凄いもので、レッドカンパニーなどは大枚をはたいてそのパターンを買い取ったといわれる。来夢とはよく言ったものだが、破綻した多くの研究者が来無となったのも皮肉が効いている。

 マダム・バタフライ効果は、美少女シムレーションの“初期値依存性”すなわち、長いつきあいの中のちょっとした心遣いの不足が後々破局(カタストロフィー)の原因となることを、香港でチャイナドレスに見とれたら成田離婚になったという悲劇に喩えている。このたとえを考えたのが先に江戸家の宣伝をしたオバート・メイである。それだけ聞くと彼がまるで勝ち馬に乗る幇間タイプのように聞こえるが、勿論そうではなく歴とした研究者であり、初期値と思春期のカオスについて更に多様化させた研究で成果を上げている。そしてその研究こそ、女子校において5人の美少女達が織りなす心の揺れについて調査した彼の“卒業論文”である。
 メイは、5人の女子高生達の担任になり、研究対象である彼女らに一年間教育を施す。その5人、未成年なので(?)名前は伏せるが、“脳天気で明るい童顔”、“落ち着きがあって眼鏡っ娘”、“根は優しいが影のある不良”、“タカビーなお嬢様”、“スポーツ万能で大ざっぱに陽気”という性格を持った5人の少女達である。この手の研究が黎明期であった当時でさえ“類型化といえばこれほど類型化はない”(日系サイエンス)とまで言われた本研究であったが、「売れりゃ勝ちだ。」というメイの開き直りは堂々としていて、竹井正樹の絵が伸び盛りだったこともあり、多大な成果を上げた。(しかし実際のところ、これほどまでに“売り”要素を明確に定義し、後発の研究者達に与えた影響を考えると、この研究は確かに評価すべきかもしれない。)
 メイの教育論は簡単な方程式、
  (今日の指導)=(教育方針)×(昨日の指導)×(個人の性格−昨日の指導)
で表され、それを一年間続けるというものだ。(数値が再起的であるため、コンピュータによる連続演算に向いているというのが表向きの理由なのだが、これって手抜き?)彼は教育を続けるうち、教育方針が“平等”なうちは5人が比較的穏やかに成長するものの、いわゆる“一人に入れ込む”度合いが高くなってゆくに連れて「一人、また一人と」担任に愛想をつかし、ある点を超えると全員に見捨てられてしまうことを示した。元に戻すには「ごめんよ〜僕が悪かったよ〜。」とリセットするらしいのだが、反面巧く教育すればみんな彼好みになったわけで、上記式がロリスティック方程式と陰口を叩かれたのも無理もないことだ。実際メイの今の奥さんは5人の中の一人だというのがもっぱらの噂なのだが、そんなこと世間が許しても筆者が許さない。

 こうした初期値に対する美少女の鋭敏性を説明する手段としては、ウスメールの馬蹄が有名である。ウスメールは転校するまでの一ヶ月の間に研究対象について調査を行い、まとめるという短期決戦型の研究を行ったが、登校してから下校するまでの、一見同じ様な日常を、パイこね生地をのばしてまた折り畳むという、「同じようでいて微妙に違う。」日々として捉え、昨日校庭にいた少女が今日も同じ場所にいるわけでは必ずしも無いことをよく説明している。
 この研究では後半、帰宅途中に気安く別の少女に声を掛けたりすると、校門を出たところで本命の少女が待っていることがあり、消え去る少女の無言の非難は、現パラメータの結果として表面化しているだけだと思っていた一枚絵の奥に深い感情の世界があることを垣間見せてくれる。また同じく後半、校舎の一角で突然後ろから目を塞がれ、ホルマリンを嗅がされる...ではなくて誰何されることがあるのだが、「今日は海ちゃん。」なんて言おうものなら当然その声の主の機嫌が悪くなる。夜中に寝ぼけ眼で研究に従事していてもいっぺんに目が覚めてしまうほど緊張するこうしたイベントは、人生の岐路がほんのちょっとした出来事によって決定されることをよく示している。かつまた、前半に自分でまいた種で後半に自分自身を苦しめているとも言えるわけで、このような危険が一日のうちの何処に散らばるかが判らないさまは、正にパイこね生地が均一に混ざり合うという彼の説が思春期のカオスの特徴である初期値鋭敏性の説明として的を射たものであることが判る。  そうそう、何故馬蹄なのかというと、そうした浮気性の研究者は、馬に蹴られてしまうからである。


 前述しているロリスティック方程式には純粋に数学的な特徴がある。それは、一人が愛想を尽かしてからもう一人が愛想を尽かす間隔と、その一人と次の一人が愛想を尽かすタイミングが相似関係になっているというものだが、こうした自己相似形はフラレタルと呼ばれ、ベノア・ジャングルブローの詳細な研究が有名である。
 フラレタルは美少女再起関数の経時変化の様子を座標系にプロットしたときに、出来る絵画のような模様のことで、そうして描かれた美少女絵画全体のうちのある部分を時系列的に拡大してみると、ウォーリーが隠れている...じゃなくって、美少女全体と似たような傾向の美少女が見られるというもので、例えば、セーラームーンの近くを拡大していくと電脳組が見られるというような現象が見られる。これは全く同じ絵が見つけられるというより、「この番組どっかで見たんだけどなぁ。」と、デジャブーのような感情が胸の奥でつっかえるような時に、ああそうそうやっぱり、となる類の相似のことで、パクリとの境界が微妙な作品群が控えているところがかえってスリリングである。ジャングルブロー集合というのはフラレタルの絵の中でももっとも有名なもので、この中で試しに綾波レイを拡大してみると...わははは、星野ルリがいたよ、となるのである。が、驚いたことに、かぼちゃワインをもの凄く拡大していくと、なんとラブひなが見えてくるのである。(かぼちゃワインはラブひなより余程記憶にあるのだが、声優が巧かったからか、それとも単に長かったせいなのか?)
 フラレタルの革新性は、美少女の多くが当然二次元と思われていた常識的判断を覆し、「研究者達の思い入れの分だけ現実に近づいている。」として、2.4とか2.6とかの中間の次元、いわゆるフラレタル次元を創出したことにある。これは研究者が二次元のアニメキャラに陶酔するあまり、彼女らがまるで現実にいるかのような妄想に浸る傾向を自虐的に法則化したもので、研究者の興味がフィギュアにも多く注がれている今日のような現状ではますますこのフラレタル次元は現実に近づいていると考えられる。極端な話、2.95次元くらいになっていると考える研究者さえおり、筆者などは大丈夫かおい、と心配してしまう。そしてこの結果当然その反動として、研究者達が真の三次元人達からますます見放されていくということが顕著となっているわけで、由々しきことである。(だからフラレタルというんだけど。)

 フラレタルは美少女の複雑系の中で、その様態がとらえ所のないカオスの一歩手前にある規則性を研究する分野であるが、この他に美少女複雑系から見いだされる特徴的な傾向として有名なものに、ノリトンがある。
 ノリトンは神に仕える女の子というような意味で、ノリトは祝詞が語源、末尾の-onには女の子の名前につけられる陽子、光子の“子”と同様の意味がある。ノリトンは美少女の魅力の中の一形式であるにも関わらず、研究者が入れ込むに足る特性を持ち併せており、近年その存在が俄にクローズアップされているものだ。
 このての、美少女の職業に関する魅力では、研究者の間では長年“看護婦”が断然トップであり、その権威は揺るぎ無いものだと思われていたのだが、ここに来てのこの“巫女さん”の勢いはその牙城を揺るがすところまで来たとさえ言われている。“看護婦”の魅力は、“看病(優しくかきつくは研究者によって異なる)”,“注射(大きいか小さいかは研究者によって異なる)”,“制服(白かピンクかは研究者によって異なる)”などのように、着ている中身は二の次として(良いに越したことはないけど)、類型的でわかりやすいところに評価が集中する傾向がある。これに対して“巫女さん”は、こっちだけ“さん”付けをしていることから判るように、近寄り難さから来る神聖な魅力を基本としており、“制服”である羽織袴がポイントを上げていることは事実であるが、それは看護婦のそれとは少しニュアンスが異なるようだ。(それにしても月天はちょっと高いぞ。)
 ノリトンの特徴としてもっとも明確なものに“自己保存性”があるのだが、これは巫女さんの人気が衰えそうになると、何故か巫女さんを扱った作品が出現するという不思議な物性によって保持されている。このメカニズムを利用すると、美少女の魅力が非常に遠方まで減衰することなく達することが可能なわけで、太平洋無中継美少女ケーブル敷設という壮大な事業が計画(“海より深い美少女の愛”計画、だそうだ。)されているのだが、「現代の人柱だ!!」という声が強くてなかなか進まない。筆者は自己保存性にはこのほかに、巫女さんと神との永続的な関係性をも表しているような気がしている。つまり巫女さんの職業がずっと保持されてきたわけは、歴史的にも陰日向から支えてきたファンがいたことを物語るわけで、ちょっと頷ける。
 美少女界でノリトンに類似する自己保存性を探ると、“孤独で寂しげな表情”に関するものがそれに近い属性を持つことが判っている。これはこの表情が一度作成されると憂いが郷愁を呼び、長くその表情が自己保存されるというものだ。実際にこれを観察できる機会は滅多にないが、本年夏に名古屋の堀川にシャチが来たとき、その背中に乗っていた人魚がその表情を湛えていたという。これを観察したウイロウ卿は、一緒になって川沿いを走ったが、お約束で電柱に当たって倒れるまでその表情は変わらなかったとのことだ。オリハルコンの光に導かれて遠海に帰るとき、しかしその人魚は微笑んでいたともいう。


 カオスに戻ろう。思春期のカオスで忘れてはならないのがノーベル禍学賞受賞者であるイリヤ・キシボジンの散逸系の研究だ。何せ彼はあの“樹の下”に、十人もの美少女を集めたのだ。
 『ときめきと記憶の構造』と題する論文の中で彼は、高校三年のある時期から特定の人数にせっせと電話を掛けまくることで美少女達に特異なパワーバランスを作り出すことに成功し、普通ならどんでん返しがなさそうな時期になって最後の電話を掛けると、樹下には美少女が入れ替わり立ち替わり現れるゆらぎを持った状態になることを突き止めた。
 これは他の研究者から非常に羨ましがられた。本来なら十回を越える研究をしなければ達することができない成果を、彼は一度で成し遂げてしまったのだから。
「爆弾がね、重要なんだよ。」イリヤは意味深に語るが、実際、“ときめき”なるパラメータを微妙に操る必要のあるこの研究は、再現性がとても難しく、彼がスネ尾なみに得意げであったとしても無理もないことである。彼の研究所に行ってその場面を横で見ていると、鮮やかな液体火薬(やきもちを主成分にもつ)の調合を終えた系の状態に確かにその状況は再現されており、次々と現れては寂しげに去って行く美少女達は筆者には不憫でならなかった(筆者は博愛主義者なのだ)。彼はその上近年の研究で成果をあげた第二段の論文も仕上げており、卒業式の日にやかましいほどに鐘が鳴っているのを見せられるにつけ、「こんなことが許されて良いのか。」と非難したいのを必死でこらえたものである。
 イリヤはその後、くだんの樹下で刃傷沙汰を引き起こしている。当然である。

 この研究は、高校生活をおくるうちで美少女と知り合いになり、会合を重ねて共鳴度を高め、卒業の日に樹下で会うことを最終目的としている。この研究がペド複雑系科学の代表とまで言われるのは、ひとえに美少女の魅力の引き出し方にある。従来の美少女学は、美少女の還元的分析、瞳がウルだとか声がおしとやかだとか、そういった個別に調べてゆける内容をクローズアップして研究することが主流だった(フェチ?)のだが、本研究では美少女とただ会う事に主眼を置き、そこから得られる“研究者と美少女が共通した時間を持つ”ことを成果としているのだ。
 この“共通した時間システム”が巧妙なのは、解析し尽くされた還元的要素と異なり、研究者がそれを再現するときに生じる微小な記憶のずれが、時間が経つごとに研究者“自身”の中で勝手に増幅し、余分な尾ひれを付けて膨らみ始める点にある(ミニマル・アートに通ずるか)。つまり、美少女が提供するのはあくまで“核”に過ぎず、それを再起関数によって増幅させるシステム自体は研究者の“心”に委ねているため、思い入れがある以上それは雪だるま式に膨れ上がるわけで、究極的には研究者自身にカオスの終着点であるカタストロフィーをもたらすことすらあるのである。
 実際、この研究対象に苦労(?)している者、一生を捧げている者を筆者は多く知っている。もう千年を越えるほど在籍している研究者すらおり、「清少納言と一緒に入学したんです。」という彼の言葉には驚きを隠せない。この研究の真に恐ろしいのはやはり、こうした脳内の非現実的空想充満状態を“妄想”と非難せず、“メモリアル”とすり替えている点であり、その深遠なまでの奸智にはただただ驚嘆するほかない。
(実は、筆者が本研究の周辺で真に恐怖したのは、研究者の一部が更に本研究を還元的視点から捉え、CD-ROMの中から美少女のBMP画像やWAVE音を抽出する者が出たことである。これが何故震撼に値するのかというと、これは言うなれば美少女の“分解”なわけで、これを為す行動の心理は系統を辿っていくと間違いなく宮崎某の行為を演繹できるからである。これは、美少女を知りたいという感情が湧いたときに、美少女を全人格的な人として捉えるよりも、調べ尽くすことが可能な“モノ”として捉えていることを示すのだ。そして更に恐ろしいことは、そうした価値観を持つ者はたぶん筆者ら研究者の中では決して特異な存在ではないことなのだ。筆者は、彼らのほとんどは実際にはいわゆる“天使のカツオくん”が“悪魔のカツオくん”よりもずっと強い(良心のことね)ことを確信しているから、宮崎某が彼らの中から再来するかという点についてはずっと楽天的なのだが、自戒を含めて彼らに質問したい事柄がずっと頭をよぎっていることもまた隠せない。すなわち、彼らは究極還元した所、CD-ROMの“0”と“1”に萌えられるのか? というものだ。)


 さて、以上に多くの複雑系の研究を見てきたここにいたってなお、美少女の心がとても速く変転する様、その気持ちの先が何処を向いているかは、やはりよく判らない。
 結局のところ、これら研究で重要だった成果は、美少女が発する魅力と思っていたものが、実はその多く(か一部)がそれを研究していた研究者自身が生み出していたものだったことを示したという点につきる。これだけでも本研究のアプローチが美少女研究に大きな寄与をしたのは間違いない。すなわち、この研究により、ペド学体系は深遠なる美少女の謎に、また一歩近づいたということは言えるのである。
 しかし本音を言えば、筆者はシムレーションが本当の少女のそれを解明することは出来ないのではないかと考えている。それが科学の限界というべきなのか、研究者達の力が及んでいないからなのか、それは判らないのだが、少女達の持つ神秘性が未だ手の届かぬところにあるのは確かであり、今後もそれが変わることはないであろうと思うのである。
 よしんばこれらの複雑性の中から法則を見いだし、美少女の秘密の一端を垣間見ることが出来たとしても、研究者はそこに、彼女達からのあるメッセージを見つけるだろう事を筆者は推測するからだ。
 謎の渦巻きが二つのアトラクターを中心に撹拌され、ある種の神秘が凝縮した先、そこには、
  ウルロリQ
と書いてあるに違いないのである。

                              おわり



論文リストへ