「大岡裁き」は最悪の判決である

上野均



 世に「大岡裁き」という言葉がある。言うまでもなく江戸期の名奉行と称えられた大岡越前守忠相に由来する、情理を尽くした名判決というほどの言葉だが、ともすれば現在のニホンにおいても司法はかくあるべしという文脈で使用される。
 しかし、説話として伝えられる「大岡裁き」は本当に名判決と呼べるのだろうか。ここではもっとも有名と思われる「三方一両損」を取り上げてみよう。
 結論から言おう。司法の一貫性、コスト・パフォーマンス、基本的人権によって保障されるところの法の下の平等など、あらゆる点から見て、「三方一両損」は考えられる最悪の判決である。
 では、この判決のどこが誤っているのか。あまりにも有名な事例ではあるが、念のため、事実関係を簡単に陳述しておこう。
 町人Aは某日、某所に於いて財布を拾得した。財布の持ち主が町人Bであると判明、中に入っていた三両という金品とともに、AはBに財布を渡した。
 ところがここでBは「落とした金は諦めたもの。Aの所有に帰するべき」と主張する。Aも「拾った金を私物化する人間と見做されたのは、名誉の毀損にあたる。Bは財布及び三両を受け取る義務がある」と反論した。
 そこで大岡越前の登場である。大岡はくだんの三両に、自ら一両を加え、四両とした上で、Aに二両、Bにも二両を取らせて言う。「拾得物を我が物にすればAは三両を得たはず。それが二両となったのだから、一両損をした。Bも同様である。そしてこの大岡も一両を出したのだから、損をしている。三方一両損、恨みっこなしだ」と。
 A、Bともに「お奉行の仰せであれば、謹んでお受けいたします」かなんか言って、めでたしめでたしとなるわけだが、ちょっと待って欲しい。この判決には決定的に欠けているものがないだろうか。
 そう、大岡裁きには「規範」という概念が欠落しているのだ。今後、同様のケースが起きたときにどう決着をつけるべきかという「規範=ルール」がまったく示されていないのである。
 おそらく大岡は、この一件限りの解決策として、「三方一両損」を提示しているのだ。同じ訴えを、別の者が別の機会に提出しても、大岡は一両を出すことはないだろう。むしろ、お上を愚弄する者として、一刀両断にされてしまうかもしれない。
 それは、法治主義の立場からいえば、最悪の裁きなのである。要するに、裁きのすべてが、大岡の気分次第だからだ。
 同じ条件でトラブルが発生したとき、司法は常に同じ判断を下す。これが最低限の司法のルールというものであり、そうでなくては、「法の下の平等」などありえない。だから、一度下された判決は「判例」となり、その後の審判に決定的な影響を与えることになるのである。
 もし、三方一両損を「判例」として、今後の審理においても採用したとしよう。奉行所はたちまち、三両を手にした町人たちでごった返すこと請け合いである。金を道に落として拾わせるだけで一両増えるのだから、こんなに手堅いビジネスもまたとない。
 慌てて奉行所は、「ただしAとBが共謀したる場合はこの限りにあらず」とのお触れを出さねばならなくなる。しかし、共謀の事実を確定するにも、ただではすまない。それなりに取り調べを行ない、証拠を固めるためには、時間と労力を必要とする。このコストは、幕府=行政が負担しなくてはならない。国民の尊い年貢が、実に下らないことに空費されるのだ。
 本当にお金を落とし、善意の人が拾い上げたケースであれば、三方一両損を適用せざるをえない。このとき、問題となるのが、その「一両」の出どころだ。あくまでも大岡=奉行のポケットマネーによるのであれば、遺失物の三分の一にあたる額を支払い続けるのだから、早晩、大岡=奉行は家屋敷を売り払って破産の憂き目を見る。立て続けに何代もの奉行が破産すれば、奉行のなり手などいなくなり、江戸の町は無法地帯と化す。さもなくば、奉行個人の独自財源=賄賂を黙認するほかなくなり、司法の腐敗は目を覆うばかりとなること、火を見るより明らかである。
 では幕府が負担したらよいではないか、と考える人間は、もはや国民の敵といっていいだろう。繰り返すが、幕府財源は、国民の血税によってまかなわれている。わずかひとつの、しかも社会的になんらメリットのない判決によって、落とし物対策に莫大な予算を割くことになるのだ。これによって、幕府の財政基盤が揺らぐことさえ、容易に想像できる。「三方一両損」はまごうかたなき亡国の法といえるだろう。
 さらに経済倫理学の立場からみても、「三方一両損」はその名が示す通り、もっとも愚劣な判断だといえる。
 何故、現実には三両の富が一両増えたにもかかわらず、当事者たちが一様に「損」をしてしまうのか。その原因は、大岡の基本認識の誤りにある。
 つまり大岡は、審議の過程において、A、Bの要求水準を勝手に上昇させてしまっているのである。もう一度、A、B両人の最初の言い分に立ち戻ってみればいい。
 A、Bはともにこの三両についての権利を放棄している。それが本件の出発点であったはずだ。ところが大岡は、A、Bともに三両すべてを所有する権利を有するという誤った前提を導入するのである。この前提を真に満たすためには、なんと六両もの財が必要となる。「正義=正統性を持った所有権の主張」がインフレを起こしているのだ。
 自ら引き起こしたインフレを鎮めるため、大岡はポケットマネーの一両を投じる羽目となる。公の裁きにポケットマネーを使うこと自体、大岡に公私の別がついていないことの証左となろう。こんな公私混同裁判官にお白州を任せておいていいのか。
 しかもこれほど高価な代償を払いながら、A、B両人はこの判決を「不本意ながら受け入れる」という程度にしか満足していないことも指摘しておかなければならない。なぜなら、A、B両人が当初から主張してやまない「一両もいらない」という要求は、審理のあらゆる局面において無視され続けているからだ。
 本来、この訴訟は、当事者同士の利害の調整という民事裁判的要素が濃厚であるといえる。そこでは、A、Bの主張を生かしながら、合意点を見出すのが望ましい。ところが大岡は、紛争当事者の意思を一切顧慮せず、自らの数字遊びに没頭しているのみである。A、Bがこんなひとりよがりの判決に納得していないのは、当然のことといえるだろう。

 つまり大岡裁きは、
・法的一貫性皆無の恣意的な判決
・劣悪なコスト・パフォーマンス
・公私混同
・当事者の主張を無視した司法の暴走
 の集合体なのである。では、真に正しい裁きとは何か。
 まず考えられるのは、「三方一両得」であろう。
 もともとA、Bともに三両に対する権利を放棄しているのだから、期待値はゼロ。そこに一両与えられれば、一両の得となる。A、Bに一両ずつ渡すと、元は三両だから一両余る。残りの一両は大岡がもらえばいいのだ。大岡も文句なく一両得。「三方一両損」よりはるかに優れた解決であるが、しかし、まだA、Bの主張が十分に反映されていない、といううらみもある。
 この欠点を補う判決はあるだろうか。もちろん、ある。
 まずA、B両者の主張を全面的に肯定してみよう。よく考えれば、この両者の主張はまったく矛盾していない。十分に両立可能なのである。
 繰り返すが、Aは拾った金は自分のものではない、と主張している。したがって一両も必要ではない。Bも落とした金は自分のものにあらずと言明する。こちらもゼロで構わない。
 すると、お白州には権利の放棄された三両が残る。この三両、大岡が確かに引き受ければ、おぬしらの面目も立つというものではないか。当然のことながら、この三両は幕府の御金蔵におさまる。窮民対策、城郭の修理など、おぬしらが如き暇人の意地の張り合いの相手をするより、はるかに有益に使われることであろう。そして、このような下らない諍いをお白州に持ち込む馬鹿も減り、訴訟コストも軽減される。三方丸くおさまった。
 これこそ後世に伝えるべき名裁き。その名も「大岡三両得」である。



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