こうもん探訪

加藤法之



 旅の気分に誘われて、小春日和のさる街道。見上げる空も蒼く映え、進む足取りまた軽く。天下太平目指すため、行くは黄門世直し道中。
 芥川隆之氏のナレなこんな感じだったか。老人になってから前人未踏の日本数十周を成し遂げた徳川幕府第三代副将軍徳川光圀、通称水戸黄門の足跡を辿る歴史ドキュメンタリー「水戸黄門」は、数十年の歳月お茶の間に詳細に紹介されているにもかかわらず、まだその全貌を見せていない。スタッフの懸命な努力にもかかわらず今世紀中の完成は噂通り不可能だったようだ。しかしそれも無理もない。光圀はその行程距離もさることながら、旅の目的が世直しということもあって、壇ノ浦における八艘飛びや出雲でのヤマタノオロチ退治など、還暦をすぎた老人とは思えぬ、というより既に人間業とは思えぬレベルの剛胆なエピソードが多いため、それを逐一再現するのは尋常な苦労ではないのだ。普通の老人である役者が一人で演じきれる筈もなく、光圀役は既に数人の役者が交替していることをあげても、その大変さが窺えようと言うものだ。

 周知の通り、さすがの光圀もこれだけのことを一人で為したわけではない。彼には数名(人数は上下する)の従者がおり、中心は警護役として佐々木助三郎と渥美格之進(通称助さんと格さん)、すっぱ(忍者)役の矢七(通称風車の矢七)、華役のかげろうお吟らとともに、八兵衛(通称うっかり八兵衛)が従う。(注.最近のシリーズでは矢七は出ていない。代わりに柘植の飛猿という忍者が従っている。)
 助さんと格さんは関ヶ原の合戦時に毛利軍一万を二人で釘付けにしたエピソードが最も有名だが、実は助号と格号は代々襲名式であり、徳川精鋭軍団の更にエリート二人が代々受け継いでいるため、光圀の共をしたのはこのエピソードとは関係がない。共をした助さん格さん自身の有名な話と言えば、やはり寛政の大地震の際に富士山の下で暴れていた全長150mのお化けナマズ退治であろう。地中から姿を現したナマズが発するP波S波光線に応戦するパラボラ印籠ウェーブの死闘は、劇中に流れる伊副部曲による軽快なマーチとともに特撮ファンの間では語りぐさになっている(第12部6話 寅次郎北海恋歌)。
 風車の矢七は、番組中では明確に語られてはいないが、甲賀の抜け忍である。このためメインの話の裏では甲賀から差し向けられた刺客と常に戦っており、冒頭の八兵衛の名物食ねだりをしている場面で思い切りボリュームを上げておくと、ごく希に手裏剣の刺さる音や、「五人、十人!!」とか歌っているのが聞こえたりする。(歌う?)
 かげろうお吟は、矢七と夫婦になっていて、くノ一(女忍者)である。彼女の見せ場はなんと言っても入浴シーンである(異議あるものは前に出ろ)。どの宿場に泊まっていても真っ先に風呂に入る彼女の風呂好きは有名で、歴史的に見てもしずかちゃんと比肩できるのは彼女くらいのものだろう。彼女は江戸っ子であり、阿蘇山の溶岩流風呂でのラドンとの長湯比べは感動したものだ(第9部18話 ランゲルハンス島の憂鬱)。

 さて、上記四人が光圀の旅の同行者として明確な役割を持っているのに比べると、実は八兵衛については謎が多い。曲がりなりにも番組では全シリーズに出演し、ムードメーカーとして存在感は十二分にあり、なくてはならない存在という位置づけにあることは異論の余地はないと思うのだが、如何せん一体何故黄門一行の一人として選ばれたのかが全く判らないのだ。黄門行脚の足跡を記した史料として名高い書“暴れん坊光圀が斬る 湯煙ぶらり膝栗毛”の巻三十二・三百五十六頁によれば、『徒然なるままにひくらし、遠州路を行くに、紫たちたる雲の細くたなひく。八またふくつうす。』とある。魑魅魍魎跋扈する悪魔界でオリハルコン争奪の最中、光圀にはふとしたきっかけで出会った金星人メーテルとのロマンスがあった。彼女に誘われた武闘会に向かう途中、立ち寄った花屋の菊を食べた同行の八兵衛は食中毒を起こした。と、このように現代語訳されているこの一文が、八兵衛という人物の人となりと、彼が黄門一行に同行していたことが歴史的事実として確認しうる唯一の記載である。ここには八兵衛が菊の花を見てそれがお浸しにしてあると勘違いするほど「うっかり」であること、それを更にお腹を壊すほど食べるほどに「食いしん坊」であることに関しては読みとれるものの、どうして黄門一行に同行できるようになったかを示す証拠や、更には番組中で初期設定とされている彼の夢遊病癖や、実はイスラム原理主義で水戸の実家では赤旗を購読していることなど、どこを探しても出てこないのである。同番組の提供が国粋主義(ナショナル)であることを考えればとてもスポンサーからのテコ入れでこうしたキャラクターになったとは考えられない。
 曖昧模糊としている八の存在が、水戸黄門研究者にとって非常に大きな謎として捉えられている理由がおわかりいただけただろうか。

 前置きが長くなったが、とにもかくにも問題は八兵衛である。彼は何故黄門一行に紛れ込んでいるのか。その秘密を探る試みは、歴史学者が様々な角度からこれまで行われているので、まずそれを紹介していこう。
 そもそも本疑問を最初に提唱したのは江戸前期の朱子学者である萩生徂徠で、“公園随筆”には光圀編纂による“大日本史Q”の中に誤字脱字が意外と多いことをあげており、ここにいわゆる『編纂者の中に、そそっかしきもの、これあり』と読みとっているが、これなどは明治の思想家中江億民が“江戸約訳解”の中で同書について指摘した箇所の、『うっかりの影』と表現したある男の存在を彼も感じていたことを物語っていて興味深い。
 光圀の足跡を可能な限り辿ることで、その行動を推測しようと試みたのが、かの異能忠敬である。彼は光圀にこそ及ばないものの、五十歳で江戸を出て、全国を測量して回る傍ら、黄門一行がある場所からある場所に行く時間を割り出し、どうすれば一週間で奥州から日向の國まで歩けるのか、を解明した(ジャンピングシューズを使ったとしている)。この研究で彼は黄門一行がどこで道草をしたのかについても解明しており、名物のある場所にはほぼ必ず立ち寄っているその足跡から、『一行の中に食に執着するやからあるようにて(後略)』と結論している。
 近年では全田一晴彦による名前とことわざからのアプローチがある。彼は“八”という名前も襲名されたと考え、その明治期における襲名者が渋谷の“ハチ公”だとしている。そして『“犬が西向きゃ尾は東”というが、犬の尻尾は曲がっているので、あの尻尾を正確に計るとメッカの方向を向いていた。』と、“ハチ”回教徒説を唱えている。あまりにもばかばかしいが、言葉を忠実に再現してこうなったのだから確かに“原理主義”ではある。
 作家の想像力で八兵衛研究に新展開を見せたのが大岡波平であろう。彼はその著“零点戦記”の中で飢えた八兵衛についてとりあげ、彼が『人をくった』人柄だったことをほのめかしている。
先達の業績はかようにして、先述した設定のかなりのところまで解明できているのだが、結局のところ肝心の「何故黄門一行に加わっているのか」について判明したわけではない。よってそこに焦点を当てることができれば、熱いこうもん学に一石を投じることができるのだ。

 筆者が注目するのは八兵衛の性質としてよく知られている「食いしん坊」という点だ。これまではこれは八兵衛という人物の人となりを単に表すものとしてのみ扱われていたが、それ自体に目的を見いだそうというのである。つまり、食いしん坊だから、黄門の旅に加わることができた、という説だ。
 そう考える根拠は、黄門一行が行脚に出ていた時代背景にある。徳川政権も三代家光の時代には盤石のものとなり、ために家光は鎖国政策を強化したのは周知の通りである。この鎖国、一般には歴史退行と否定的に評されることが多いのだが、近年、家光の真意はおそらく逆だとするものが出ている。すなわち、鎖国しても賄っていけるまでに国力が充実したから、家光には敢えて国外とつきあう積極的理由が見つからなかったからだという考え方だ。つまり当時の日本はそれができるほどに文化が発達していたのであり、アルバニアや北朝鮮の鎖国政策がたかが数十年のうちにじり貧と化したことを考えると、二百年の年月鎖国しきったというのはその考え方がさして的外れではないと思われるのである。で、そうした鎖国政策を採った以上、当然幕府としては国内の治世を充実させる必要がある。生産性を上げ、産業を発展させる、いわゆる殖産興業はこうして江戸時代前期には実際かなり奨励されており、その後に続く江戸時代の反映の基礎を築くのである。この殖産興業政策、具体的にはまず幕府は、諸国にどんな風物があり、どの土地にどういうものが有効に機能しているかを調べることから始めなければならないのだが、そうすると黄門一行の全国行脚も、あながち物見遊山だけの目的で行われていたのではないことが察せられてくる。つまり、黄門一行は文化調査団だった可能性が高いのである。光圀は文人としても一流である(前述の大日本史Qの編纂など)から、文化的諸物調査については彼の博物学的視点からの知識が大いに役立ったであろう。更にその後その知識を政治的に役立てるのに、副将軍という立場が威力を発揮したと見るのは穿ちすぎではあるまい。(矢七は四次元ポケットを持っているから、各地で購入した物産はそこに収納したのだろう。ちなみに旅に出かけるときには、そのポケットには100本の風車が入っている。抜け忍なのに友達を100人作って、日本中を一回りするのが夢だったようだ。)
 さて、これを踏まえて再度八兵衛を見るとき、彼の「食いしん坊」の性格が明確になるのである。すなわち、八兵衛は各地域の食文化を調査するための調査員であったと考えられるのである。各地に潜む隠れた食文化、それをまるで犬のような嗅覚で嗅ぎ当て、初めて行く土地であるにもかかわらずその地域の名物について詳細な知識を持ち合わせている。そうした技量に長けた八兵衛が黄門一行に加えられたのは、こう考えてくると納得できるのだ。(実際には、風土に根ざす以外使い道のない食べ物もあったはずで、そうしたものも積極的に食べる八兵衛には、一行の毒味役のような位置づけもあったかもしれない。)
 こうもんの探求はかように熱い。

 いかん。うっかり本気で書いてしまった。ちょっと軌道を戻そう。
 食いしん坊から八兵衛の黄門一行に加わっている必然性について説いてきたのであるが、ここでもう一つの性質、“うっかり”について考えてみようと思う。そこでまず次にあるエピソードを紹介することにするのだが、それは敢えてうっかり八兵衛においてうっかりの果たす重要性が如何に高いかを示すものだ。
 前述したように歴史ドキュメンタリー水戸黄門は、数十年の歳月放映を続けており、演ずる役者も何度か交替している。(シリーズを通して演じているのは風車の矢七と八兵衛(正確には二代目らしいが)だけだったらしい。)さて、局内で密かに計画されている事項の一つに、次期うっかり八兵衛の選定がある。現在演じている高橋元太郎さんもずいぶんな年齢に達してしまったため、次期役者の選定をうかうかと引き延ばすことは難しくなってきたのである。そこで同プロジェクトの進行が始まったのだが、これが以外に何作業だったようだ。それもそのはずで、氏の持つ魅力を損なわないまま現在の八兵衛を演じきれる演技力を持った役者など、現在の若手のストックには皆無であることが判明したからである。
 高橋元太郎さんの前進は今から見ると意外と言うしかない。若い頃はスリーファンキーズというアイドルグループの一員としてファンたちにキャーキャー言われているのだが、事実そのテナー歌手としての歌唱力はかなりのものであり、椎名へ○るなんて蹴飛ばしたくなるほどだ。旧作マッハGOGOGOの主題歌を歌っているのは氏であり、まさに風を切り裂くうっかり八兵衛というところだ!!(こんなことを言うと若い読者にまたジェネレーションギャップを感じるのだ...いないのか?そんな読者。)と、そんな輝かしい実力を持っているのにあの八兵衛を演じているのである。いや転じて言えば、そのくらいの実力がなければうっかり八兵衛は演じることができなかったと言うことであり、局側が今回いろいろと後継者選びを試みてみて、そのことが身にしみたというのが実状なのだ。
 そこで特別機関、八兵衛育成所が設立され、本腰を入れての後継者探しが始められた。そして、八兵衛襲名を目指して数十人の若者が集められた。彼らはいずれも一流大卒でスポーツもこなし、歌がうまくしかもオタクではないと、なかなかの実力を持った者達だ。同期間ではこの中でもっとも八兵衛として適任な者。すなわち八兵衛のように食いしん坊であり、そそっかしい性格であり、人が良いことは認められるものの、やはり、うっかりしている者を選ぶのである。(見逃されがちだが、書類選考の基準として「身長170cm未満の者」という項目があったことを注記せねばなるまい。若者の平均身長が高くなっている現在では難しい条件になりつつあるが、190cmもある八兵衛では、たとえうっかりしていたとしても、ウドの八兵衛という名称に変更せざるを得ないので、これはやはり必要条件なのだ。ならばぼけつっこみと考えて、隠し砦の三悪人みたく凸凹コンビとして二人にするという手もあるが、となればその芸名は、うっかり八兵衛と、ねじなし熊吉といった具合になると予想される。その場合光圀が長屋の大家という位置づけになってそれはそれでおもしろいのだが、現行のうっかり八兵衛はその両方の質を兼ねているから、どちらかというと上方落語系の与太郎の系譜を汲んでいるということだろう。)
 同機関はそれでも、苦難の末数名の若者を八兵衛の素質ある者と見なしたが、最終の八兵衛襲名試験はとても難しいもので、その多くの挑戦がその前に退けられることになる。だがそれでも、その難関を乗り越えて襲名一番手の候補になった人物がようやく見いだされ、局のプロデューサーに呼ばれるところまでこぎつけた。しかし、彼がプロデューサーから告げられた言葉は衝撃的なものであった。
「申し訳ないが、君に次期八兵衛の役を任せるわけにはいかない。」
「な、何故ですか。あんなに一生懸命にやったのに。熱意も、演技力も、私が一番だったじゃないですか。」
「そうだ。だが、それがいけなかったのだよ。」プロデューサーは前置きの後にはっきりと言った。「君はしっかりしすぎているんだ。」
「し、しまったぁ! ついうっかり!!!」
この後、晴れて彼の二代目八兵衛襲名が決まったという。食いしん坊である八兵衛をたたえて襲名式には当然“万歳”をする筈だったのだが、やっぱりというか、うっかり忘れられたらしい。

 さて、こうして見てくると、制作者達は八兵衛の八兵衛たる資質として“うっかり”していることは欠くべからざるものとして捉えられていることが判る。では何故そうまでしてうっかりしていなければならなかったのか。
   うっかりに はっきりこだわる しっかりもの (字余り)
思わず一句詠んでしまったが、局の上層部がこれほどまでにこだわっているとなると、“うっかり”をそれこそうっかり見逃すことができない本質が隠されていると思われるのだ。そこで筆者は、もう一度黄門一行の背景を探る必要性を感じたのだが、この課程でこの謎に迫るやもしれぬ疑問があったので、それに触れてみたい。

 黄門一行はその旅の目的柄、あからさまに身分を語るわけにはいかないので、普通身分を偽る際には、越後のちりめん問屋の隠居、光右衛門であると騙っている。一見何気なく聞き逃してしまう科白なのだが、よくよく考えてみるとこれは奇妙なことである。江戸時代の政策は、鎖国のような外国に対する門戸を閉じる行為だけでなく、封建制維持のために国内諸国の安易な人口移動を制限していたのだ。だから、いくら隠居後の道楽とはいえ、商人の地位のまだ低かった江戸時代初期にあって、爺さん一行がのうのうと旅をできるような環境ではなかったのである。(例外は富山の薬売りと、伊勢詣でに向かうお陰参りの一行くらいのものだ。)ましてや一行はお吟を連れている。“入り鉄砲出女”はトンネル効果でも無理と言われた関所を通れる筈がない。
 天下御免の“ちりめん問屋の隠居”。こうもんの謎はこの辺が臭そうだ。

 越後のちりめん問屋の隠居なる言葉はこう見てくると、現在の我々が考えている様な単純な図式ではなさそうだ。実際、筆者はこの言葉が文字通りの意味ではなく、ずばり当時で言う旅芸人一座の劇団名なのではないかと考えている。つまり、“梅沢トミー一座”、“ポリ背負いサーカス”と同列の意味での、“越後のちりめん問屋の隠居”。束縛の多い江戸時代にあって唯一諸国漫遊を許された芸能の民、一抹の夢を与える代わりに現実に根を下ろすことを巧妙に忌避された彼らなら、女連れでも爺さんでも怪しまれずに動ける。
 そこで筆者は早速1680年版完全芸能人年鑑CD-ROMを国会図書館から借り受け、当時人気のあった旅回り一座について調べてみた。当時の人気劇団を列挙すると、“尾張のきしめん問屋の隠居”、“伯耆のたんめん問屋の隠居”、“讃岐のふとめん問屋の隠居”(うどん?)、“長崎ののりめん問屋の隠居”(坂が多い?)、“若狭のかりめん問屋の隠居”、“メリケンのXめん問屋の隠居”などが上がっているのだが、それらに混じって果たして“越後のちりめん問屋の隠居”があるではないか!!
 江戸時代に芸能の民が流浪を認知された最大の要因は、被支配を強いられる定住民達の不満の解消にあった。そうであれば、当時の芸能人のステータス、“越後のちりめん問屋の隠居”を名乗る以上、それなりの芸達者が揃っていなければならないが、大笑いのしすぎで元祖くしゃおじさんになった光圀、瓦二十枚割りの格之進、ガマの脂売り口上の助三郎、お色気のお吟、風車売りの矢七と、それぞれ糧を得るだけの一芸に秀でていることに気づかされる。そしてそうだからこそ、ここで価値の大逆転が起こる。水戸黄門一行を越後のちりめん問屋の隠居、つまり彼らを芸能の民として見る場合、民衆にもっとも親しまれたであろう芸の持ち主、何よりもその天然ボケがもっとも賞賛された者は、誰あろう、“うっかり八兵衛”なのだ。一行の中で常にムードメーカーであり、おいしいところをつかみ、しかも話術に堪能とあれば、昔の藤山寛美のごとく、うっかり八兵衛が“越後のちりめん問屋の隠居”一座のスターであった。その証拠に、八兵衛が民衆のフラストレーションを解消する目的をもっともよく果たしていたことを裏付ける事実があるのだ。実は民衆が彼に与えたであろう芸名こそ、“鬱狩り八兵衛”だったのである。
 彼らが当時如何に人気があったかを物語るのには、ほとんど何処の土地に旅に行っても“偽黄門一行”が現れるという事実があるし、このほかにも、印籠を出されてひれ伏している脇役達の中で、光圀が“越後の〜”と名乗った相手だけが更に頭一つ土下座を深くし、肩を震わせて笑いを噛み殺していたことをあげることもできる。そう、黄門一行が芸能の民として怪しまれずに諸国漫遊できたのは何を隠そう八兵衛のお陰、いや誤解を恐れずに言えば、黄門一行が旅を続けられたのは、うっかり八兵衛がいたからこそだったのだ。
 こうもんはやっぱり奥が深い。

 黄門一行が八兵衛に“ちゃっかり”同行していた。これが真相だったのである。

                              おわり



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