主観的客観論

穂滝薫理



 “主観的”、“客観的”という言葉がある。英語で言うと“subjective”と“objective”で、直訳すれば“物体的観点”と“主体的観点”てな感じになるだろうか。念のために辞書を引いておこう。
主観的:自分一人の考えにもとづくようす。
客観的:個人の考えにとらわれないで物事を見たり考えたりするようす。
 となっている。漢字に“客”という時が使われているところから推して、舞台に上がっている役者ではなく、外から眺めている観客の目で問題を見てみる、ということなのだろう。確かに、“岡目八目”という言葉があるように、当事者でない人から見たほうが、問題の核心や間違い、解決法が明らかなことがある。
 しかし実際の現場では、それが絶対的な意味で使われることさえある。「客観的にみて、その考えは間違っているよ」と言われたとき、我々はなんと反論したらいいのだろうか? ほとんどの場合、「そんなことないと思うがなぁ。うーん、でもそうなのかも」と自説を引っ込めないまでも、もう一度考えてみようという気になるだろう。
 “客観的”とは、それほど信用できる言葉ないしは概念なのだろうか?

 私は、客観的という言葉を発するのが人間である以上、必ずその人の主観が含まれると考えている。
 ある絵があり、私一人が鑑賞していたとしよう。私が「美しい」と言ったとしても、主観的には美しい絵なのだろうが、客観的に見て美しいかどうかはわからない。さて、そこに9人の人がやってきて全員が「美しくない」と言ったとすれば、その絵は客観的に見て美しくないということになるだろう。一人一人はもちろん主観的に美しさの判断をしているのだが、数の上で“美しくない”派が多ければそれは客観的であるとみなされてしまうのである。10人の人がいて、そのうち9人までが美しくないと感じるのであれば、その絵は客観的にみて美しくないのだと判断することに、それほど違和感はないだろう。ところが、そこに、さらに90人の人がやってきて「美しい」と言ったらどうなるか。100人いるうちの91人が美しいと感じた絵ならば、その絵は客観的にみて美しいということになりはしないか。結局、“客観的”とは、(事実上の)主観的多数決と言い換えられるのではないだろうか。このように“客観的”という言葉は意外とあいまいだ。
 ところで、絶対的な客観というのはありうるのだろうか? 例えば「客観的に見て1たす1は2だ」という言い方は成り立つのか? 事実とか真実を客観視することはできるのだろうか、ということなのだが、これはできそうにない。また、逆に「これは僕の主観だが、1たす1は2だと思うね」というのも成り立たない。なぜなら「1+1=2」という真実は、客観的に見ようが主観的に見ようが関係ないからだ。では、例えば古代のギリシャ人が「客観的に見て地球は丸いとしか考えられない」と言った場合は? これは当時ならば言えたであろう。なぜなら地球が丸いことはまだ真実とは認められていなかったからである。しかし、現代ではもうダメである。客観的に見ようが主観的に見ようが地球は丸いのだから。
 それが真実となるかどうかは、多くの(ほとんどの)人が真実と認めた(あるいは納得した)時点で真実となる。言葉のあやのようだが、たとえ後に真実と認められたことでも、人に認められなくては真実ではないのだ。大半の人がそれを疑っている段階では、地球が丸いということはまだ“仮説”に過ぎないのである。仮説であれば、主観も客観も成り立つ。
 こう考えると、客観とは、主観と真実の間に立つものという見方ができそうだ。自分一人の考え、これは主観だ。それに賛同する人や証拠が増えるに従って客観度が上がり、反対する人がいなくなった時点で、真実もしくは真理になるのである(むろんどんな真実であっても反対する人はいるし、反対することは可能である)。
 このことからも、客観には多かれ少なかれ主観が含まれていることがわかる。繰り返すが、主観が含まれなくなった時点で真実になる。
 だから、部長に「キミ、客観的にみてそのアイデアはつまらないよ、キミ」と「キミ」を2回言われたとしても、その部長の言う“客観的”は、“絶対に”というワケでは全然なくて、ほとんどこの部長の“主観”だと言ってもいいくらいなのである。
 というワケで、客観的にみて“客観的”という言葉は信用できないワケであるのですよ。



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