明日も愉快なサザエさん

加藤法之




 幸福とは何かと問われたとき、あなたは何と答えるだろう。
 幾人もの異性にもてる。抱えきれない程の万金を手にする。身に余る栄誉を受ける...。一般的に出るだろう答えを書き留めてみると、そんなところだろうか。
 “100人に聞きました”でも先行を取れそうな上に示した例はしかし、実のところひどく取り留めがない。そこに掲げられた“異性”,“金”,“栄誉”といった名詞は一見明瞭だが、具体的対象として形にする段になると、それは途端に漠としたまま判然としなくなるからだ。これらの答えはまるで、区役所の書類記載例の名前欄に書かれている“田中一郎”の様に、口を付いても実を持たない。
 どうだろう。こう述べてから、もう一度あらためてあなたに問いかけるのは。
 あなたにとっての幸福は何ですか。


 '80年代の中頃のことだったろうか。現在も放送を続けている不滅の大河ロマン“サザエさん”において、ある事件が起こった。それは、平日の夕方のニュースで流される交通死亡事故の様に、ほとんどの人々にとってあっさりと見過ごしてしまったであろう小さな出来事ではあった。だがその一方で、いやその極々一方で、一部のそれに気付いた人々にとっては、その事件はアポロ着陸にも匹敵する衝撃を与えた程の歴史的事件だったのである。

 その日の放送が始まった時は、それは紛れもなく、いつもと変わらぬサザエさんだった。
 我々がいつもと同じように家族で居間に集い、くつろいで観劇する中、OPでは東芝の技術を褒め称えていたし、飼い猫のタマはスカートの下からそっと現れていた。その後、某電機メーカーのCMを流し、本編が始まっても、それでもやっぱりそれは、いつものサザエさんだったのだ。
 だが、本編開始二分ほど経った頃だろうか。それは突然やってきた...。
 磯野家当主波平の甥にあたるノリスケの嫁タイ子はその日、愛息子と共に磯野家に遊びに来ていた。彼女はなにも夫の帰りが遅いことを浮気と勘ぐって愚痴を言いに来たわけでもなければ、メカブーストの来襲から疎開してきたわけでもなく、ただ単に、同年代のために気の合うサザエや舟に世間話をするために寄ったらしい。
 いつもと変わらぬ、何でもない光景そのものだった。
 その息子、イクラが、こう言うまでは...。
「ママ。」
 その瞬間、実は私も大した反応を起こした記憶がない。多分、聞き間違いだと思ったのだろう。そもそも、その後のこともあってはっきりとは覚えていないのだ。
 それでも一応夕食の手を休めて、私は今度はもう少し意識的に、画面を見つめたものだ。秋の宵に窓を打つ雨の音や、春に風が運んでくる梅の香のように、それと意識しなければ気付かないほど当たり前になったサザエさんの視聴だ、たまたま聞こえてきた音が気のせいによるものだとその時の私が思ったとしても、無理はないではないか。
 だがあろうことか、TVのスピーカに向けて注意を高めたその耳に、今度こそその衝撃の声はこだましたのである。
「アリアト。」
 何? 一体どうしたというのだ。今ひょっとしてイクラちゃんはありがとうと言ったのか? 私は今聞いたその声が意味するところを信じられず、その言葉を海馬から引き出してみた。もぐもぐもぐ。いや、もぐもぐもぐ...。私は牛でさえ飽きるのではないかと思えるほどそれを反芻してみたのだが、どうも他のこととして誤魔化しが利きそうもなかった。
 いや、まだしっかりとそう聞いたわけではない。幻聴という可能性も捨ててはいけない。混乱しながらも私は自己弁明せずにはおかなかった。丁度当時の私は受験生だったこともあって、暇さえあれば頭の中をアクタ共和国の国歌が流れているような不安定な精神状態だったから、幻聴の一語や二語聞こえてもおかしくはないと、必死になって自分に言い聞かせたのだ。
「タァたん。」
 こうした最中に発せられた、三語目の声は決定的だった。そこまでされては、最早それを無かったのどうのと言う余地はない。既成事実を種に結婚了承を迫る木偶の坊と、その横に座って俯いている娘を前にした父親のように、この期に及んでは、私もそれを認めざるを得なかった。
それ乃ち、イクラの発語を。

 私が物心付いてずっと登場し続けており、にもかかわらずいつも「ハーイ」としか言わない波野家の長男イクラがその日、紛う事無き明確な言葉を発したのだ。
 私はこのときの衝撃を生涯忘れないのではないかと思う。驚愕が大脳の思考の停止させ、はち切れんばかりの興奮がもたらすアドレナリンの急速な分泌とそれに伴う軽い幻惑。神経が底引き網漁を始め(つまり、魚(ギョッ)が獲れる。)、身体中の赤血球がマカレナを踊っているかのような動揺が駆けめぐる。私は今後、たとえ赤信号で隣り合わせたUFOから永沢君が出てきてもこれほどは驚かないだろう。
 劇中ではその後も、イクラが喋ったという正にそのことを軸としてドラマを進行させ、喜ぶノリスケ&タイ子の面前で更に“パパ”などもボキャブラリーの一つとして披露していたが、私にはもう正確に筋を追うことなど出来なかった。この状況にあってそんなことが出来る人がいるとしたら、我が子が二階から転落するさまをホームビデオに撮って、カトちゃんケンちゃんの面白ビデオコーナーに送れる位冷静な人だけだろう。
 イクラが喋った。それがどういうことか、何を意味するのか。それは一見大したことではないように思える。だがそうではない。断じてそうではないのだ。何故なら、サザエさんの中のキャラクターが成長するという、その真の意味は、現代日本人の総てに潜むイドを抉り出すに足るほど鋭い刃なのだから。
 今回最終的には、この刃を研ぎ挙げてみせることが目的ではあるのだが、背景を知ってもらいたいが為、今少しドキュメントを続けたい。

 まだ若かった筆者が通っていた学舎における、次の日の会話は当然、前日にあった放送に集中した。「あのイクラが喋った!」「サザエさんのキャラクターが成長した!」こういった類型的な意見から始まって、「このままイクラだけ成長するんじゃないのか!!」更に、「老人となって病床に臥せったイクラがサザエさん一家に看取られて最期を迎える日が来るのか!!!」など、興奮の内に捲し立てられるこれらの会話はその日、その放送を見た全国の人々によって為されたに違いない。私などは本能的にそうした、全国の人と一つになっているその空気さえ感じた事を覚えている。(馬鹿なと思うかも知れないが、そういう感じは、発売日に並んで手に入れたドラクエVを徹夜でやっているときの、奇妙に実感される全国の同じ立場の人との共時性に喩えれば判っていただけようか。)私はその日、全国で数多交わされたであろう話題を自分も共有していることに、震えにも似た感覚を味わったものだ。
 その日確かに、日本はサザエさんで“熱かった”のである。

 だから次の放送時、老若男女から招き猫福助まで、凡そ私の知る限りの範囲の全ての人間はTVの前に座っていた。誰しも思いは同じだったのだ、前の週に起きた信じがたい事件がもし本当だったならば、自分の目でこそもう一度確かめなければならないという抑えがたい衝動は...。手に汗握って正座して、グラディウスUの最終ステージよりも刮目してモニターを見つめていたあの日。
 しかし事態は意外な方向に転回した。全国の同胞がこうして満を持して迎えた次回放送分。あろうことかその中ではイクラの言動は、また「ハーイ」のみに戻っていたのだ。
 人々は呆気にとられた。担がれたのか? 謀られたのか? 前の週にあったあれは一体何だったのだ?
 疑問は百出して渦巻くのみで一向に止まず、この得心ゆかぬ行為に対し、困惑した視聴者によりTV局の電話回線がパンクし、堪えきれずに溢れた噂によって周辺が洪水となった。と聞いたが、それが本当かどうか調べる術は既に無い。せいぜい、フジテレビが御台場に移った真の理由がそこにあったのだろうかと推測を巡らすが関の山だ。
 だが一つはっきりしているのは、兎にも角にもそうした騒動を最後に、サザエさん番組内でのイクラの発語はパタリと止んでしまったことである。


 人の噂も...とはよく言ったもので、日が経つにつれさしものこの事件も風化していった。問題の日のサザエさんをビデオに撮っていたなどという奇特な人間がいるわけもなく(一休さんを録っている人は知っているのだが)、その事件はその日見ていた人間の口頭のみにのぼせる事件として、闇の彼方に葬り去られようとしている。そもそもあれから十年以上経った今では最早、本稿で上述するまで、この一件を知らなかった読者が殆どではないだろうか。
 だがここでくどいほどに念を押しておきたいのは、上述の記載は十余年前に私が実際に体験したことだと言うことだ。私が自分の目で見、自分の耳で聞いたことなのだ。あなたには信じ難いことかも知れないが、イクラが喋ったというのは本当のことなのである。アダムスキーのUFOについての証言など、これに比べたら嘘みたいなものだ。
(......................君、嘘だと思っているな。そんなに疑り深いと、接待は無いと言いきる大蔵省の役人に嫌われるよ。)

 こうまで言ってもまだそんなこと私の戯れ言だろうと見る読者には、本件実在の証拠として、一冊の既刊書を呈示しよう。釜堀さとる著“帝劇・イクラ大戦”がそれだ。
 当日、私同様上記の放送を見ていた著者が、自身の記憶によって可能な限り問題の話を再生したという同書は、およそ三百ページに及ぶ大作(何故か三十分で読める。)で、私の記憶と合致するエピソードも多く盛り込まれている貴重な本である。
 ただ私として非常に残念なのは、今回の件に関して同書に対し資料的価値が皆無であることを認めないわけにはいかないことである。なにせこの本、サザエさんはお嬢様の女子高生になっており、一緒に連れている妹のワカメは頭の弱い大喰らいに変えられてしまっているのだ。舟は絣を着て木刀を振りかざすし、あまつさえリカちゃんは目が隠れるマスクを付けただけの変装で愛戦士ロリリーカとか名乗って鞭振り回しながら出てきさえする。一体あの話をどう見るとこうなるのか、私にはちょっと理解できず、従ってイクラ事件のあったことを認めていること以外の価値をこの書に見いだせないのである。(この本、奥付けを見ると第八刷とある。日本は大丈夫か?)
 まぁそれはともかく、特記しておかねばならない興味深い事実がある。それはこの本の出版に際してかかったある種の力についてである。というのもこの著者、この本を出版した次の日、隅田川に浮かんでいたのである。
船遊びをしたのだ。


 イクラお喋りが事実であったことは取り敢えずこの辺で認めていただきたい。(ただでさえ本題に入るのが遅いと言われているのに。)
 さて、そもそもそうした事件があったとして、ではどうしてイクラはその後喋らなくなってしまったのか。この疑問はごく基本的であるが、それだけに核心を突いている。
 そうなのだ、なにもイクラが喋るという様な大それた事を想定しなくても、サザエさんは現在も過去も全然変わっていないのだから、そのままで何年も来たと考える方が、よほど自然ではないか。静的なまとまりの場に、わざわざ外乱があったことを考える必要がどこにあるというのだ。
 そうした考えは確かにその通りである。そしてそれほどに、サザエさんが変わらぬものであることは、日本においては自明と化しているのである。
 だが、だからこそ、私にはこの疑問を解明する義務がある。あまりにも当たり前となってしまったこの事実に亀裂を入れることで何が見えてくるのかを、示さなければならないのである。
 たとい私が、それを偶然見てしまったというだけで選ばれたに過ぎないにしても...。
 見てしまった者だからこそ伝えねばならないものなのだから。


 まず、次の週から元に戻ってしまったイクラの行動から、イクラの身に何があったかを考えねばならない。
 イクラが喋ったことから演繹されるその後のイクラの未来は、先の噂で奇しくも言っているように、“成長”の一語によって説明できる。乃ち、イクラはそのまま行けば、頻繁な会話、整然とした思考が可能になり、すくすくと大きくなってゆき、その次の歳の春にはタラを追い越して幼稚園に上がるというように、“成長していく”のだ。
 だが実際のイクラは現在見られるような変わらぬ姿をとどめている。となれば、これに私が下しうる答えは一つしかない。  イクラは、人為的に成長を止められた。

 遡って考えてみよう。何が原因になったかは今更知る由もないが、とにかくイクラはある時突然成長を始めた。そしてそれが一時的にせよ周囲に受け入れられたことは、放送に例の回が乗っかったことからも明らかである。だがどうした経緯の末か、それはある瞬間に懸念に変わったと考えられる。何故なら、イクラに降り掛かった災難には、理由もなく増大する不安の、悲しき行く末は多くの場合不幸であるという法則の一例としか見えないようなところがあるからだ。
 人為的な成長の抑制。ではそれはどのような方法に依ったのか。イクラは元に戻った、つまり彼は再び喋る事すら出来なくなったということだから、そこには知性の後退すら引き起こす何らかの行為があったと考えられる。
 知性後退をなし得るものとしては、“夏休みに勉強しない”,“DHAを摂らない”,“スリノモに触れる(逆さなんだね)”,“せんしに転職する”,“同人活動に没入する”,“こんな駄文を読む”など様々だが、これらはどれもどちらかというと、知性後退をする者が主体的に行う行為であり、他者からそれも意図的に行えるモノではない。
 現代で知性後退を他者が可能ならしめる方法は、普通に考えれば医学によるしかない。そして、私の知る限りそんな例は、精神の能動的な発現を抑制し、成長にも影響を与える脳外科手術である、ロボトミー手術しか思い浮かばないのだ。
 施術者の自発的思考を不能にし、外部からの命令に服させる、つまり人間をロボット化するという意味のロボトミー手術は、語感ほどコミカルなものではない。実際には事故による外傷が原因でやむを得ず施すことが多いのだが、施術された者はその時点で大人になっていたとしても辛うじて話せる程度、よしんば幼少時なら間違いなくフランケンかO次郎になるという、実社会において易々と行われてはならない恐ろしい手術である。つまりそのロボトミー手術が、イクラになされたというのである。  表に出ることの無かった悲劇的な事実がここに白日に曝された。この無慈悲な行為に対し、筆者は湧き出す怒りを止めることが出来ず、お陰でここ二ヶ月ほどはガス代が安くなってしまっている。
 だがそれほどにおぞましい、人権を無視したような手術を、一体誰が行ったのだろうか。そしてそんなモノを施してまで、何故イクラの成長を止める必要があったのだろうか。イクラの成長によって、一体何に、どれほど甚大な影響があるというのだろうか。


 カツオの不良化、サザエの売春婦化、マスオとカツオの泥沼化する相続問題。
 少し距離を置いて読むと、まるで遠洋漁業に出た漁師さんの言葉のように見えてしまうのだが、そうではない。寺山修司はかつて、サザエさんのマンネリの無限ループを破壊するには磯野家の家庭崩壊が不可欠であるとしていたが、その具体例として挙げたのが上記の例なのだ。幸福な家庭を持たなかった彼にとって、磯野家の円満が多くの内的矛盾にも拘わらずあくまで予定調和足り得ていることに我慢がならなかったのだろう。確かに、心の闇を見せない(持たない)彼らの行動は、醜悪な現実を生きる我々には少なからず眩しすぎるため、彼らに嫉妬し、苛立ちを感じることもしばしばである。
 がしかし不思議なことに、そうであるにも拘わらず何故我々は、次の週も同じ番組を見ているのだろうか。日曜六時半、サザエさんにチャンネルを合わせる、そのほとんど無意識と言えるほど何気ない所作の結果、画面にいつもの通りのサザエさんが現れる。別にキャラデザインがCLUMPなわけでもないのに、作画監督が荒木伸吾なわけでもないのに、どうしてそんな行動を取ってしまうのか。
 “いつもの通り”。一見すると駅前の商店街のメインストリートかと思うが、前の方の文中で何気なく発せられていたこの言葉が、実はこうした総ての謎のキーワードとなるのだ。

 ここで、ふと振り返ってみよう、我々が今生きる現実を。
 サザエさん世界と異なり、現実は我々に優しくない。明日のテストは吟遊詩人よろしく来るべき受験の凄絶な結果を謳い、無理矢理切った約束手形は予言者のように不渡りの期日と悲壮な未来を見せつけてくる。そして何より、苦労ばかりの人生の先に、ふと気が付くと明らかに見え隠れする、我が身の老いと死の影...。
 電車に揺られる時の昨日より深い疲労、渋滞に苛ついて見上げたバックミラーに映った我が顔に刻まれた年齢、眠れぬ夜に却って頭から離れぬ不安。我々の心の、イドの中の更に奥、日本海溝でリュウグウノツカイがあっち向いてホイをする程の深さにある何かがそんなとき、内なる狂気の到来を抑えるために、悲鳴をあげつつある行動を起こすのではないか。チャンネルを回す(押すって言えよ)という行動を。
 何故って、そこにいつも現れるからだ、“いつもと同じ”サザエさんが。

 ロシアの小説に、流刑地での終身刑を煙草一箱と引き替えに身代わりになろうとする男の話が出てくる。男は、流刑地の生活の過酷さを憂うよりも、そこでは変わり映えのない生活が送れるからむしろ満足だと言うのだ。そうした男の考えは一見、正気の沙汰ではないように思える。しかしこの行為、私にはむしろ上記の“サザエさんにチャンネルを合わせる日本人”の深層心理の延長線上にあるように思えてならない。
 すなわち男はそれまでの現実で、恰も現在の我々のように、運命の変転に玩ばれることに心底疲労していたのだろう。だからこそ、彼は過酷な生活だったとしても、それから一生同じ生活を送れることがこの上なく魅力的に見えたのである。
 我々の社会では常に前向きであることが評価されるが、その一方で、人間はこのように立ち止まる弱さを捨てきることが出来ない、同じ場所に留まる安寧を振り切ることが出来ない。たとえるなら、窮屈な学校生活から逃げ出したいと思わない日はないのに、通学路の角を逆に回る勇気は、その後同じ日が送れなくなることに怯える心に打ち負かされるようなものだ。
 結局のところ、そうした負の無意識が結実した結果として、サザエさんの視聴はあるのではなかろうか。サザエさんの中にある普遍が、たとい虚構であるにせよ、現実の世界に割り込んでずっと変わらぬ姿として放映していることそれ自体が、普遍を辛うじて保証してくれるように思えるからこそ、それに縋り付くように、それを確かめるように我々は視聴するのではなかろうか。自分が変わっていないことの確認作業、滑稽とすら言えそうなそんな想いが、サザエさんを支えていると、考えられないだろうか。
 そしてそうであるなら、無常の現実にあって普遍を求めて止まないこのような矛盾した人間が如何に多いかは、サザエさんの視聴率がそれを鏡のように反映していることになる。
 そう考えるとき、その先についに今回の事件、イクラの受けた不幸の、その答えが見えてくるのである。


 イクラが喋った! サザエさんが変わる!
前に見たように、二つの命題は我々の心の中でほぼ直結している。そしてサザエさんの変革は、そのまま多くの日本人が持っている心の最後の拠り所、その安定を揺るがす行為となる。
 だからサザエさんは成長してはならない。それは国民に与える影響が大きすぎる。彼らの成長を追っていって、もし波平あたりの老衰死を描く事になった場合、“彼よりは髪がある”と粋がっていた老人は、“もう後がない!”という想いが強迫観念となり、次の朝にはアルツハイマーとなるだろう。カツオが受験勉強を始めたら、“彼よりいい学校に入るもんね”と粋がっていた青年は、“俺はカツオ以下だ”と叫んで夕刊の三面記事の“だし”に成り下がるだろう(もともと頭が鰯なのだという説もある)。このように、サザエさんの変化は、今の日本では既にサザエさんの中だけの変化に留めることは出来ない。サザエさんが再放送をしても誰にも気付かれないように数千話を制作しているのは意味のない行為ではない。(サザエさんの中では実際いわゆる、“時事ネタ”を極端に嫌う。長野オリンピックすら、磯野家では見られないのだ。)声優がいなくなってもコンピューターで再現できる技術を確立することに国家予算が注ぎ込まれていることは根拠のないことではないのだ。(トリトンもリメイクできるし。)それは全て、けっして誇張ではなく、サザエさんの変革が日本人の多く精神に壊滅的打撃を与えかねないためなのだ。
 それ故に、イクラは戻らねばならなかった。
              悲しいまでに無垢な白痴に。
 もうお判りだろう。イクラを元の姿に、ロボトミー手術に追い込んだのは、昨日と同じ今日を生きられることを幸福を見いだす我々の無意識、つまり他ならぬあなただったのである。


 文字通り、“幸福を絵に描いた”家族として一般に知られているサザエさん一家は、影でそれほど大きなものを背負わされている。
 それは公に知られてはならない事とされているのだろう。だからイクラ事件は闇に消え、事実関係を究明しようとするものは何らかの圧力に身の危険を感じるようになる。
 だが私は、それに気付いてしまったからこそ語らねばならなかった。何気ないからこそ我々の心の深層をもっとも映す両者の関係、その果てに見えてくるものは、本当は誰もが一度は考えなければならないものだから、気付いた誰かが語らねばならなかったのだ。
 こんな事を書いた以上、私にも大いなる災厄が及ぶことは必至であろう。いつ何時、私の背後から何者かが襲ってこないとも限らない。だから、最後にもう一度繰り返そう。あなたにとって幸福とは何ですか。それは本当に、飽くなき進歩の果てに掴み得ているものなのですか。あなたの未来はそんなに進むに足るものなのですか。人間はそんなに強い心の持ち主ばかりなのですか。
 だけれども、そうであるなら、それほどあなたの心が前向きであるならば、あのアニメ番組の、隠された悲劇はどうして起こったのですか...。
はっ!!
「ふんが、んぐ。」





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