魔術伝承の民族学的考察

加藤法之




 民族学が、どちらかと言えば活気のない学問として世に思われて久しい。これは、後世の学者達が先人柳田国男の業績に続かんとするあまりに、地方山村のフォークロア(民間伝承、民間説話)の採取に躍起になりすぎたことが原因になっていることはよく指摘されるところだ。実際、柳田国男の当時はともかく、現代において民族を構成する人間の平均から大きく逸脱した対象の研究に固執するそれは、道楽者の気楽な研究だとの誹りを免れないであろう。
 巷間に流布した伝承を集め、その中からその集団が持っている無意識“褻(け)”を見いだす事が民族学の本質である。現代日本においてその民族の多くを占めるのは周知の通り都市生活者であり、良かれ悪しかれ彼らが現在日本人の無意識のオピニオンリーダーである以上、都市生活者達に伝わる伝承の研究を蔑ろにして、同学問の活性化を望むべくもないことは明らかであろう。
 今回の研究はそうした眼目から、現代人に流行したある伝承を分析し、それを為したものとは何だったのか明らかにするものである。


 東京都大田区に、丘太十塩なる人物が住んでいる。一見普通の青年に見えるこの若者の部屋を訪れると、多くの人はその景観に圧倒されるという。
 四畳半一間の彼のアパートは、ポスターにより壁をかき消され、ビデオにフィギュアその他で床を埋め尽くされている。部屋の中はあらゆる場所が物で占拠され、今や彼の生活空間は彼の寝る万年床の上のみになっている。そこに足を踏み入れた者は、決まって見てはいけない者を見てしまったような心持ちになる。
 これを読んでいる人には少なからず心当たりがある(筆者も!!)と思われる部屋を持つ、そんな彼の元へ筆者が取材に訪れたのは、一昔以上も前に流行ったある民間説話について取材するためであった。
 そう。彼の部屋の壁に貼ってあるポスターの多くは、実はそれに関係したポスターであり、彼の床のグッズの多くは、実はそれが関係した物だったのである。
 それらは、統一してある魔法少女を描いていた。そして筆者は、この魔法少女の放つ、ある呪文を解き明かしたいと考えているのである。

「昔は、私のように誰の部屋もあの少女で埋め尽くされていたもんです。」丘太氏は語る。「雑誌やレコードでは飽きたらず、少女が商品展開されたあらゆる品物に手を出した強者なんてざらにいました。商品展開の一つである丸大が出したソーセージを山のように買い込んで、今日までに至る肥満体の基礎を気付いた人も決して少なくはなかったのです。」
 彼の語るのが事実であることは、上記説話の放映当時に発生した莫大な数の信者達が、その説話中の呪文を唱えつつ大阪城を占拠して、我慢しきれなくなった一部の信者が幼い子に襲いかかった、通称“デモもモモも桃のうち”事件で知ることができる(このエピソードだけは、筆者にしては珍しく元ネタがある。通称は今付けたものだが。)。
 この後も、当時を語る丘太氏の話は続いたのだが、オタクの熱弁はブラジルの通貨より価値がない物なので割愛させていただく。が、とにかく、劇場にまで掛けられた長篇説話を最後に、その魔法少女は人気を沈静化させていき、今当時のことを詳しく記憶する人は、12回払いのLDBOXを未だに見続けている(保存版がもう一組あるらしい...)彼だけになってしまったというわけなのだ。
 持ち込んだ録音テープがいっぱいになっても本質に辿り着かない事に辟易し、筆者が取材を終えて帰ろうとした時だ。興奮がピークに達した彼は、やにわに枕の下からピンクの柄のステッキを取り出すと、立ち上がって天井にかざし、こう叫んだのだ。
   ピピルマ ピピルマ プリリンパ
   パパレホ パパレホ ドリミンパ
 髭の似合う大人になってしまった彼は、もうそれ以上変身はしなかった。

 上記民間説話は、説話を聞かせたい本来のターゲットである少女ばかりでなく、本能の嗜好ベクトルが偏向した人間達が目を付けるという、今では比較的日常的に行われている病理の黎明として重要な物と位置づけて良いであろう。これさえなければ現在いい歳をした独身男性が“りぼん”や“なかよし”を買うといった行為は、ごく一部の変質者に限られていたはずだからだ。それは正に彼らの本能の、「封印解除(レリーズ)」な出来事だったといっていいだろう。
 さて、この説話がかくまで信者を生んだ理由として、脚本や演出の明らかなその筋の者達へのメッセージがあったことは確かだが、筆者はそれが、説話の主人公である魔法少女という存在自体にあると考えている。

 この説話の主人公すなわち魔法少女「ミンキーモモ」なる人物は、同説話の中では人々に幸福(夢)を与える存在として位置づけられている。彼女はある日突然虹の橋を伝って降りてきて、我々の日常の前に姿を現すのだが、そうした異世界からの来訪、そしてそれ以降語られていった物語は奇しくも、我々がかつてより持っている昔話の多くが語っている“異形の者がもたらす幸福譚”のそれとそっくりなのである。
 “異形の者がもたらす幸福譚”。それは異界である“山”から流れてくる異形の者“桃太郎”が宝を持ち帰る話であろうし、異形の者“犬”が異界“土中”から宝を見つける話でもある。また、竜宮から戻る浦島が宝“永遠”を持ち帰る話も加えても良いだろう。魔法少女譚は、そうした古来より伝わる昔話と同じ構造を持っているのだ。すなわち異界である魔法の國“フェナリナーサ”から異形の者“ミンキーモモ”が、宝“夢”をもたらす説話という具合に。
(余談だが、異界とは上記例にあるように“山”や“川”などの距離的異界、“土中”や“水中(竜宮)”など、到達不可能な異界だけでなく、過去や未来、日没以降の暗闇や人の心の中などの、日常生活と密着しているのに窺うことの出来ない場所も異界とみなされていたようだ。その意味で説話“姫ちゃんのリボン”での“パラレル パラレル”なる呪文は、魔法界が現世に対しどういった位置づけをしているかを考える際に参考になるものであろう。)
 我々の多くが所属する都市生活者達にも、同説話が受け入れられた理由はここにある。それは幼き日、枕元で聞いた母の語る昔話を受け入れたことに喩えられようか、民族としての無意識がその魔法少女説話を生じさせ、また広められたのである。
 この説が突拍子もないと思われたとしても無理はないが、これはもう一つの論拠を呈示することで確固たる物となろう。すなわち、魔法少女が周囲の人間に祝祭(夢)をもたらす際に呪文を唱えるのは、それは同じくかつて村に祝祭をもたらす際に行われた祝詞や祈祷に端を発しているという説だ。そうした伝統継承の証として、前述の呪文を調査したのは正解だった。何故なら、カタカナ表記だと思われていた科白は、次のように漢字を当てられるからである。
   ぴ昼間ぴ昼間降りりんは
   ぱ晴れ穂ぱ晴れ穂取り民は
 強調の接頭語“ぴ”の後に昼間が二つ、つまり日中の太陽の照射時間が多く、しかも適度な雨が“降りりん”(降るらむの変形か)ならば、強調の接頭語“ぱ”の後に晴れ穂二つ、つまり実った穂を民が採ることができる。
 この様に、この呪文は実は豊作を祈る祝詞の意を継承していることになるのである。同主人公の名前が、
 明気腿
と漢字を当てることが出来るのも、性に対して大らかだった太古の時代の代表的女性、アメノウズメの開けっぴろげな色気を思わせるではないか。(実際、信者達はそこに魅かれたんだし。)
 同説を推す意味で述べるが、明気腿が所属する魔法の國“フェナリナーサ”に、“へなりなさ”つまり“平成為佐”の字をあてる説がある。“平成を佐(たす)くるを為す”國、すなわち“現世を救済する”國とも読めるこの夢の国の名は、この説話が流布していた時代である昭和末期の後の世である平成の世をも見通しているようで、優れて暗示的であると言える。


 一般に、都市生活者はハイマートロス(故郷喪失者)の集団などと言われるが、実はこのうちで少なくとも一部の者には、過去の日本より脈々と息づいている伝統が確かに流れ続けている。昔日の異界遭遇譚の系譜を魔法少女物に辿ることでそれが明らかにされたわけだが、この、魔法少女の異界遭遇譚との関わりの深さを実感してもらうため、もう一例実例を挙げることにしよう。鏡を使った変身魔女、アッコについてである。

 鏡に自分の姿を映し、呪文を唱えることで変身する魔法少女は、現在までに昭和地方で一例、平成地方で二例の三個体が報告されているが、どの地方でも名前は全て“アッコ”となっている。
 この問題を考察すると、普通に考えれば同一人物だという説になるが、彼女の内部に宇宙を持っているかどうか調べる手段がないため、実証にはLSTR-AVの発明を待つしかない。他に、これを偶然の一致とする説(前述の明気腿は二例報告されているが、同一名称であっても全く出自の異なる個体であり、イクチオサウルスとイルカの形状が似るような相似器官の一種であると結論されている。)もあるが、アッコと言う名にネームバリューがあることを考えると、後代の個体はU世V世であると考える説は有力である。実際、某玩具メーカーではアッコの襲名式を行っているとの噂もあるほどだ。(しかし、ルイ王朝から続いてきて現在アッコ[世だとする説は些か眉唾とすべきである。始祖はマリー・アッコワネットだそうだが、アッコはその存在に人気が落ちないからこそ名前が継承されているのであり、頚が落ちた人を始祖とするのは的外れに思われるからだ。)
 さて、こうしてアッコ歴代名称の連続性にこだわったのは、アッコと言う音韻そのものが重要な事実を浮き彫りにするキーワードになっているからである。
 ここで、民族学において異界の住人と定義されるのは、実際の別世界に居る人々だけでなく、正常な人間とは違う身体・能力を持っている人間も含まれる(神童とか、狐に憑かれる人とかの霊能力者をも指すが、身体不倶者を象徴的存在として崇め、また疎むという、いわゆる奇形信仰の事を指す。)ことを踏まえる必要がある。そこで手懸かりとすべき「アッコ」という音韻を再び顧みると、驚くべき事に漢字では“亜っ子”と書け、なんとアッコが亜人(半人間)=奇形=異界の住人であることを示していることが知られるのである。
 異界の住人「アッコ」が織りなす様々な説話は、そうしてみれば紛れもなく異界遭遇譚の後継であり、魔法少女譚の黎明期から既にしてそのモチーフ類似の傾向が汲み取れることことが判るのである。
(変身が魔法少女物の定番であるが、変身の際に必ずと言っていいほど何らかの小道具を手にしている事は容易に思い出されることと思う。こうした小道具による変身を最初に行った例が、コンパクトであることは非常に暗示的である。鏡を見ることによって女性は自らの現実を直視すると共に、化粧によって正に“化けて”やろうと決意するからである。ヤタノカガミから延々と続く変身に、今夜も世の男は騙されるわけだ)。

 説話「アッコ」を持ち出した理由は、「アッコ」が更に彼女自身の出自すら追う事が可能だからでもあるので、次にそれを解き明かしてみたい。
 異界の住人が畏敬の対象になっていること、それは彼らが持つ身体の寓意や彼らの持つ能力にあることは既に述べたが、この能力には、上述したような精神的交感能力を指すだけでなく、広く異界からの富を我々一般人に引き出してみせる能力の事も指している。具体的には、異界である山から竈(かまど)炊飯に不可欠な薪を持ち帰る、異界である土中から糧としての穀物をより多く生み出すといった、“異形の者がもたらす幸福譚”が生まれるそもそものきっかけとなった能力を指しており、いわゆる一般人とは異なる技量を持った“職能集団”はそういう訳で“異界の住人”とみなされるわけだ。(一般の生活を捨てて趣味に走る“オタク”連は、特に職能集団でなくとも“異界の住人”であると思っている一般都市生活者は多い。)
 五芒星を使って魔術を行う事で有名な呪術師・安倍晴明は、何らかの仕事を為す際に己自身が動くのではなく、式神と言われる異界者を代わりに使ったが、治水作業を為す際には土人形に生命を与えて働かせたと言われている。
 前置きが長くなったが、ここで今一度「アッコ」に立ち返ろう。彼女が変身の際に使用する呪文“テクマク マヤコン”は、その音韻に次のように漢字を当てることが出来る。
   木偶蒔く魔や来ん
木の人形(木偶)をばらまくと異界(魔)を呼び、人を幻惑するという意味にとれる。彼女自身は己が変身しているのかもしれないが、その術のルーツはここに見られるように亜人を駆使した繰演術であり、「アッコ」もそうした職能集団から派生した者と見ることが出来るのである。

 ここまでで、生きた民族学を都市生活者の説話の中に求めるスタンスから、そこで展開する説話の一つである魔法少女譚がその骨子に異界との交流という構造を持つことを指摘し、そしてそれは異界との交流をすることで自分達の生活を活性化していたかつての日本の文化から必然的に生じた“民話”と同じ構造であることを示してきた。魔法少女譚はそれ故に、都市生活者から生じたものであってなお日本文化の伝統的精神風土を継承しているものと考えることができた。
 そしてまた、魔法少女譚の黎明「アッコ」から、魔法少女が発生した源泉として、異界の術とみなされた半人間作成術を体得した職能集団達をあげられるのではないかとも述べてきたのであった。

 そうして探りだしてきた魔法少女の始祖と半人間作成術との関わりは、或いは作られた亜人そのものが独立行動を取るようになった存在が魔法少女であるかもしれないと暗喩されることはいうまでもない。
 使役されるだけの存在が魔法少女達の起源だったかもしれぬという推論は、一見衝撃的に見えるかもしれないが、無垢な魔法少女達の在り様を強調しているように筆者には感じられて寧ろ頷けてしまうのだが、いかがなものだろうか。
 魔法少女達は、あるクリエーター達から創造されることで、逆に言えば作られた存在だからこそ純粋なまでに“夢を見せる能力”を持ち得たのではないかと、考えられないだろうか。そうであるなら、彼女らの魅力は出自がどうとて些かも色あせるものではないだろう。
 それは正に、
   華麗なる せーちょー
なのだから。


論文リストへ