私の彼は電波系

加藤法之




 雑踏で  あの世と話す  頭痛持ち
これは私の気に入っている川柳の一つである。街中の喧噪で相手の話が聞こえないから、片耳を塞いでもう一方の耳に当てた携帯電話に集中する様を、頭痛で頭を抱えている仕草に喩えている。その人は目の前にいる人ではない人と話すから、まるであの世と話しているようである、と言ったような意味だ。
 この句、正規の意味は上記のようなものなのだが、パッと見の第一印象は、何かアブナイやつが街中で騒いでいるんじゃないかという感じに聞こえないこともない。そして実際、我々が街中で遭遇する携帯持ちは、アブナイやつかと一瞬疑ってしまうことが多い。  しかしこれは考えてみると恐ろしいことである。イソップ寓話のペーターと狼ではないが、馴れてしまうと狼が来ても嘘と思う様に、本物のアブナイやつが近寄ってきたときに、「なんだ、携帯か。」などと安心していたらえらいことになるからだ。樹は森の中に隠せと言うが、携帯持ちの中に紛れて近づいてくるアブナイやつは非常に見つけ難く、その攻撃射程内に入ってしまったら、いったいどんな目にあわされるか分かったものではない。実際私の知る限りでも、彼らの攻撃方法は多種に及び、コートを拡げて○○を見せる、靴下を嗅がせる、宗教勧誘をするなど、想像するだにおぞましい目にあった人達の不幸な例は枚挙に暇がない。
 携帯普及が急速に広がっている現在、このような悲劇にあう確率はますます増えつつあると言えるだろう。だからこそ、携帯持ちとアブナイやつを見分ける術を探るのはここに急務であることが分かるのである。
 と言うわけで以下、その方法を考察していくことになる。

 携帯持ちとアブナイやつを見分ける方法を探るには、彼らそれぞれの特徴を際立たせるのが一番であるが、それには両者を類似と思わせる各事項について考察し、相違点を探っていくのが得策であろう。

 (i)携帯持ちは、街中で突然喋り出す
 (i)アブナイやつは、街中で突然喋り出す
 街中を歩いていると、背後から突然声を出されて吃驚することがある。携帯電話が普及し始めた当初は思わず身構えてしまったものだが、最近ではめっきり当たり前のことになってしまった。原点に立ち戻って考えてみると、アブナイやつが背後から突然声を出してくる危険が去ったわけではないのにである。だが、困ったことに、喋り出すという行為とそれに続く会話の内容から、両者を見分けるのは殆ど不可能である。何故なら、携帯持ちは電話の向こうの相手と話しているのに対し、アブナイやつは脳の中にいる相手と話しているのであり、相手が第三者である我々にとって見えず、しかも不気味なことには変わりがないのである。

 (ii)携帯持ちは、突然音を出す
 (ii)アブナイやつは、突然音をたてる
 振動して報せるタイプもあるにはあるが、世間に広く出回っているのはやはり音を出すタイプである。これに対してアブナイやつがたてる音は、一般には何らかの打撃音とか、自転車に乗っているときは必要以上のベルの音とかだったのであるが、最近の彼らは内部から電波で呼ばれた時の自分への合図として、自分の口で“プルルル”などと言う者も出てきたので、彼らの口まねが上手くならないことを祈るのであるが、話しかけて報せるPHSが商品化されている(ドラピッチもそうじゃなかったか)ところを見ると、今はともかく将来的にはこれも見分けが付かなくなる覚悟をしなければならないだろう。

 (iii)携帯電話は、外から電波が届く
 (iii)アブナイやつは、内から電波が届く
 原理的なところを突いてみた。携帯普及当初は、建物の中とか、特に地下街などでは電波が届かなかったので、いざというときの安全地帯の様な役目をそう言った場所は果たしていたのであるが、PHSの登場でそれを基準に見分けることが不可能になってしまった。結局、電波が見えないために、発信源から両者を見分けることも我々には不可能なのである。

 (iv)携帯電話は、使用料が高い
 (iv)アブナイやつは、保険料が高い
 経済的側面から見てみた。家で掛ければ済むものを、歩いてまで長話するものだから、電話代はかさむばかりだ。一方、アブナイやつも、精神科へ通院しているような場合、医療費はバカにならない。両者の財布を覗くことは出来ないので、これによる差異化も実質的には不可能だ。その上、両者が常に経済的に追いつめられているという状況は、どちらにも自分にもう後がないという強迫観念を生んでおり、危険度が増しているところまで酷似してしまうという結果になっている。

 (v)携帯持ちは、電池が切れると、携帯を切る
 (v)アブナイやつは、何かが切れると、何かが切れる
 最終的な効果を考察してみた。これが両者を見分ける材料になりそうだと考えた人はまだまだ甘い。後者の“何かが切れる”というのが未知数のため、“携帯を切る”という行為はその未知数の中に内包されるのである。つまりそれは必要十分条件なのであり、
   携帯を切る ⊆ 何かが切れる
ということになる。“何かが切れる”の内容が“その他の何か”だった場合は確かに違うのであるが、そんなときは既に見分けるとかいうレベルではなく、もう手遅れなのである。
 つまり、これによる見分けも不可能ということになる。

 残念ながら、各項目について両者の差異を見いだそうとする計画は悉く水泡に帰してしまった。何故こんな結果になったかを追求すると、アブナイやつの方が激変した例が上記例で見られなかった以上、携帯電話の普及の方に大きな要因があると考えられる。つまり、元もとは最初に記した様に、街中で突然喋り出すなどという行為が、以前はアブナイやつを見分けるほとんど確実な判定法だったのだ。にも拘わらず、それが曖昧になってしまったというのは、後発である携帯電話普及の方が原因となっている可能性が高いのである。
 単に両者を見分ければ良いと考えていた当初の目論見は少し甘かったようだ。だから今度はその辺をもう少し突き詰めて、携帯電話について考察を深めてみよう。

 携帯電話が普及する前、我々が表を歩いている場合、バカなネタ(角川春樹の社長復帰とか、ドリームキャストの業界席巻とか、とにかくバカなネタ)を思いついて含み笑いをしそうになったときなど、それを必死に堪えたはずだ。それは携帯ラジオの普及後に志ん生の落語を聞いているときも、ウォークマンが出てからも変わらなかった。何故なら、基本的に他人の中を徘徊することになる街中では、感情を露呈するのは恥ずかしいこととされていたからである。
 携帯電話はこれを変えてしまった。携帯電話は、他人のまっただ中だった外空間に、強引に内なる空間を押し広げ、人に与えたのだ。内なる空間では人は感情を見せる。感情の露呈は内なる空間なのだから恥ずかしくはない。そういった思考を、人に与えることに携帯電話は成功したのだ。
 だがこれが奇怪に思えるのは、その内なる空間は他人にとって依然として不可視なことだろう。例えば知り合い二人で歩いているという状況なら、第三者は社会学的にそこにコミュニケーションの空間を見いだせるのだが、一人の時はそれを察し得ない。つまり、第三者からは感情の露出だけが唐突に行われたように見えるのである。感情を発信している様は、アブナイやつのそれと結果的に同じに見えてしまうのだ。
 携帯電話が我々の生活を劇的に変えたのは、単に何処でも電話ができるようになって便利になったなどという表面的なことにあるのではなく、内的空間をアウトドア化してしまったことなのである。
 ただ注意しなければならないのは、携帯電話の機能そのものだけに、携帯持ちとアブナイやつの類似の因すべてを帰するのは酷だといううことである。いくら止めろと書いてあっても映画館やコンサートホールでスイッチを切らない野暮天が多いことや、その他数多思いつくであろう携帯電話に関するマナーの悪さについてのエピソードを考えると、携帯電話の持ち主の方がアブナイやつに近づいていることも両者が類似化していく原因として小さなものではないのだ。
 結局、場所毎それぞれの場合に応じた顔を作れない社会性のなさこそが、我々がアブナイやつを見分ける手段であり、すなわちそれこそが彼らの持つ本質だったのだが、皮肉なことにコミュニケーションを円滑にするはずの携帯電話の登場を呼び水とする形で、一般の方が社会性を喪失していったと見るべきなのだろう。

 考察を深めれば深めるほど、ますます漸近していく両者の距離に閉口するばかりだが、事ここに至ってはもう次のことを認めざるを得まい。すなわち、
 両者を見分ける方法はない。何故なら両者は同じものなのだから。

 伏せておこうと思ってはいたのだが、携帯持ち達に内省を促す意味でも記しておかなければならないだろう論拠がある。それは物理学的な見地から(i)〜(v)を検討した結果であり、上記結論を導き出した最大の根拠である。
 等価原理という考え方がある。測定者が力を受けるとき、それが加速によるものななのか重力によるものなのかは区別できないため、加速と重力は同じ物であるとみなすというものだ。あくまで観察している側から区別できないと言うだけで、両者が同じであるかどうか本質的には分からないのであるが、少なくとも物理学においてはこの考えかたを認めたからこそ、光が重力場によって曲げられることが推論できるのである。
 で、この立場から見てみると、先に述べておいた五項目の検討結果は、五項目とも外部から見ただけではその違いは全くない。つまり、等価原理からすれば両者が同じであるということになるのだ。

 携帯持ち=アブナイやつ
 これまでにも我々が薄々感じていたものの、改めて呈示すると恐ろしい結論である。これによって我々は、もはや両者を見分けようといったレベルから大きく後退して、街中で数多徘徊する携帯持ちには必ず何らかの警戒をしなければならなくなってしまった。今後街に出るときに常に張りつめていなければならない緊張感と言ったらもう、ガザ地区で六芒星(ヘキサグラム)を描きまくる時に匹敵するだろう。なにしろあらゆる人間を敵に回すことになるからだ。

 こうして悲劇的な状況が明らかになったのであるが、こんな結論を導いて、それをただ指を加えて見ているのが本稿の目的ではない。跳梁する携帯持ち、いやもう遠慮はいるまい、彼ら“電波系”の跋扈をただ指を加えて見ていては駄目なのだ。電波飛び交う世界に生きざるを得ない我々は、この際腹を据えて積極的に彼らと生きていく術を模索していかなければならないのだ。
 電波系達と円滑なコミュニケーションを取っていくにはどうすればよいか。俄には思いつかないが、こうしたとき、我々は先人の知恵に学ぶのが良いことを経験的に知っている。では、ここでいう先人とは誰なのか。
 鉄人である。

 そうかぁ、ルー・テーズかぁ。って、そうではない。だいたいあんた、そんなこと思いつくなんていくつだ? と、案外年輩の常連が多いらしい机上理論の読者だからこそ分かる脳天逆落としのボケは横に退けよう。
 ここで述べるのは28号の方だ。横山光輝の方だ。ビルの街にガオーの方だ。
 漆黒の闇の中に浮かぶ巨大ロボット、鉄人28号。彼は鋼鉄の身体と圧倒的なパワーで、頼もしくぼくらの前で活躍していた。そんな巨大ロボットを操るは、鉄人を操縦できるリモコンの所有者である少年・金田正太郎、彼と鉄人は強大な敵から“ぼくら”を守り、“ぼくら”の幸せを守ってくれたのだ。そして、そんな二人と“ぼくら”との関係は決して険悪なものではなく、寧ろ平和の象徴として彼らにエールを送っていたものだった。  今から考えると信じられないが、ほんの30年前、電波系の彼らとの蜜月時代があったのである。そしてこの事実こそ、現代に再び電波系との関係を良いものにする希望が残っていることを示す証左になっているのだ。
 いい加減なことを言ってはいけないと、読者から嘲笑と罵倒が聞こえてきそうだ。我々はそれが鉄人だったからこそ応援したのだ、何で現在の電波系である携帯持ち達にエールを送らなければならないのだ、なる論調で。
 こうした意見はもっともである。だが私は、だからこそここで鉄人を持ち出したのだ。鉄人と彼ら携帯持ちが、本質的なところで同じであることを示す事が出来れば、我々は携帯持ちとの関係をこれまでの険悪なそれではなく、新しい感じ方で見ることが出来るようになるかもしれないではないか。

 これまでの議論の中で、“携帯持ち=アブナイやつ”であるとする統一理論をうち立て、それを共通項目“電波系”と称することにしていた。ここでは更に論を押し進めて、“電波系=鉄人”という結論を導こうというわけだ。大統一理論とでも冠せられようか。  あらためて前述の項目に、鉄人を当てはめてみよう。
 (i)鉄人は、街中で突然吼える
 (ii)鉄人は、突然音を出す(身体を軋ませる)
 (iii)鉄人は、リモコンから電波が届く
 (v)鉄人は、指令が消えると、動きが止まる
このあたりは、前述した(i)〜(iii)と(v)から演繹することはそんなに難しいことでは無いので、これらを同一にみなすとしても特に問題はなかろう。
 (iv)鉄人は、食べ物を喰わない
(iv)は解説がいる。すなわち電波系は、経済的圧迫をそれぞれ受けていたのであった、故に彼らは貧困な食生活を送っているのであり、“食べ物を喰わない”という鉄人のそれに近くなる。といった理由から同一と見なせるのであるが、この論拠をこじつけだと罵ってはいけない。こういうのを物理学では、ゲージ変換と言うのである。

 と言うことで、ここまでの議論によって電波系と鉄人は区別が付かないということになり、前述の等価原理から少なくとも物理学的には両者を同一とみなすことが出来るようになった。憧れの鉄人と同じなのだから、我々はもう自分たちの前に敢然と立ちふさがっている偏見の壁を、取り除いてしまってもいいのではなかろうか。それこそが電波系と共存する道なのだから。

 携帯持ち=アブナイやつ=鉄人28号
ここに、見事な大統一が果たされた。この調子で行けば、庵野秀明も取り込んだ超大統一理論の構築も夢ではない。だが今回はこの辺りで止めておこう。本稿の目的はあくまで我々と携帯持ちとの関係を意識改革することなのだから、某映画を巻き込んでまでの狂気世界の遊泳は、もはや趣旨から外れてしまう。

 ゲージ変換という、一般には馴染みの薄い理論を使って成し得た上記業績であるが、これによって更に推論を押し進め、実際の現象に適用することが、この論の正しいことを証拠立てる事になろう。それは恰も前述の重力場によって光が曲がる推論が、日食の太陽の真横を通過する遠くの星の精密な観測によって証明されるようなものである。よってこの稿を締めくくるにあたり、そう言った例、つまり、携帯持ちと鉄人が同じであるという仮定を受け入れて初めて納得できる事実を示して幕としよう。
 携帯持ちは、どのような理由でそれを持つのだろうと問うに、恋人や友人と話すためだと言うのがほとんどだろう。何故わざわざと思うが、例えば恋人に携帯持とうと言われて持ち始めたある男性の例、デートに誘われては財布を緩まされる彼を見ていると、=鉄人と考えるからこそその理由が見えてくるのである。
 彼は鉄人のように、彼女に操られているのだ。



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