映画の完全コンピューター化

ひあろ


序文.

 先日テレビを見ていたら、ハリウッド映画とコンピューターの関係みたいな番組をやっていた。番組は、どんなにコンピューターが映画に使われているか、CG(コンピューター・グラフィックス)や、モーション・コントロール・カメラ(カメラの動きをコンピューターで制御し、全く同じカメラワークを何度でもさせられる技術。画面合成などに使用される)などを実例に挙げて紹介していた。
 そして、「締め」の言葉は、
 どんなにコンピューターが導入されていても、結局それはただの道具にしか過ぎません。私たちを感動させるストーリーや演出は人間にしか作り出せないのです。私たちは、うまくコンピューターという道具を使いこなしていくことが大切なのです。
 みたいな感じのありきたりのものだった。
 しかし、と私は思うのである。いつまでもそんなことを言っていていいのだろうか? 将来的にも人間の優位性は続くのだろうか?
 本稿は、コンピューター業界の端くれに身を置く者としての立場から、映画を例にコンピューターの将来について書かせていただくことにする。

コンピューターと映画の現状.

 現在の映画は、コンピューターの導入によって、現実にはあり得ない映像を作り出すことができるようになった。記憶に新しいところでは、「ジュマンジ」の街を暴走する動物達、「T2」の変形自在のロボットT-1000、「ジュラシック・パーク」の恐竜などを思い浮かべてもらえばいい。「スター・ウォーズ」などの宇宙ものSF映画もコンピューターなしでは作れなかった作品だ。
 特にCGの発展は、俳優の仕事に驚異を与えている。「バットマン・フォーエバー」では、バットマンが高いビルから飛び降り、着地後すたすたと歩き出すシーンがCGで作られたが、俳優からの強硬な抗議によって、一部が使われなかったと言う。飛ぶシーンはともかく、歩くシーンはオレ達の仕事だ、と言うのである。この話から言えることは、CGはすでに少なくとも人の歩くシーンは再現できる、ということと、俳優はCGによって自分の仕事が奪われることに不安(もしくは恐怖感)を抱いている、ということである。
 「トイ・ストーリー」は、ついにすべてのシーンをCGで描くということをやってのけた。これはアニメ映画だが、従来のアニメのように、誰かがセル画に描いた絵を撮影したようなシーンは一切ないのである。この映画の出現によって、おそらく多くのアニメーター達は将来自分たちの仕事が奪われるのではないかと不安に思っているに違いない。
 音楽の場からも生の演奏者の仕事はすでに奪われつつある。これもコンピューター・ミュージックの発達によって、ほとんどの楽器の音と演奏をコンピューターで作り出すことができるようになってしまったからである。映画ではないが、ポピュラー・ミュージックのCDなどは、演奏はすべてコンピューターということもめずらしくないのである。

コンピューターと映画の将来

 さて、冒頭の番組でも言っているように、ストーリーや演出は、これはまだ人間の仕事である。
 しかし、コンピューターの最先端、主に人工知能の分野では、これらすらもおびやかしかねない研究が行なわれている。
 現実に人と会話するプログラムは何年も前に現われているし、本当に人間と話しているのと見分けのつかないものもあるという(※1)。また、詩や俳句を作るプログラムなどもすでに発表されているし、シナリオを作るプログラムができるのもそう遠いことではない(既に出来ている可能性すらある)。
 とにかく、コンピューターとその応用技術はものすごい勢いで発展しているのである。シナリオはもちろん、監督、演出、などなど、すべてをコンピューターが行なう日は必ずやってくる。
我々コンピューター業界の者はそのためにがんばっているのだ。
 考えてみれば、これらのことをコンピューターに行なわせることは、それほど難しいことではない。人間のやることには、ある程度のパターンがあるからである。ストーリーなども大抵は「起承転結」というパターン通りに展開する。観客を笑わせるため、泣かせるため、恐がらせるため、そして感動させるためにはどうすればいいか、過去に映画や、小説、演劇などで人間が確立してきたパターンが存在するのである。そのパターンをコンピューターに覚えこませれば良いだけの話だ。ただ、データ量が膨大なために難しいだけなのだ。

 でも、それではパターン化したつまらない映画ができあがるだけなのでは?
 もっともな質問ではある。しかし、現在の映画がパターン化してないと言えるだろうか?だけど面白い(作品もある)のではないだろうか。逆にパターンかしているからこそ、安心して見ることができ、そして面白い映画の方が多いのではないだろうか。それに、現在のコンピューターは類推することもできるのである。過去のデータを分析して、過去に無かったデータを類推して作りだすことが可能なのである。多少のランダム性(規則性のないこと。何が出るか分からないこと)を加えれば、まったく新しいストーリーや演出を作り出すことも可能になるであろう。当然、複線を貼ることなど、たやすいことである。
 このようにして、完全なコンピューター化により、まったく人の手を借りず、しかも面白くて斬新な映画を作ることは、それほど難しいことでもなく、また近い将来必ずそのような映画が現われること容易に予想できることなのである。
 冒頭の番組のように、コンピューターを使いこなそう、などと悠長なことを言っている場合ではないのだ。映画のコンピューター化に伴う、映画業界人の失業問題、そして、それを乗り切るための新たな職業の模索に力を入れるべきだ。テレビでも、そこまで突っ込んで考えて番組制作をするべきなのだ。そう、コンピューターが次に狙っているのはテレビ番組なのだから。

 さて、完全コンピューター化の世界では、もう人間は全く必要とされない。当然すべての映画の観客もまたコンピューターであり、泣いたり笑ったり感動したりしながら、良い映画にはそれなりのお金を払うのである。そうでもない映画はもちろん、テレビ放映されるまで待ってから見ることになる。

※1:会話プログラムは簡単なものならパソコン通信の「ニフティ・サーブ」で体験することができる。「GO KAIWAKUN」と入力すれば、そのサービスに入ることができる。詳しくはそこで表示される説明を参照のこと。




論文リストへ