人は何故猿を食べるか

前島篤志



山野に広く分布し、特に人間や農作物などに害をなし、けして希少なわけでもない割には、猿は食用とされることの稀な動物である。特に説得力のある禁忌が存在するわけでもないが、かくいう我々も猿など食べてみようとも思わないまま一生を終える可能性が高い。
しかし、中国人は違う。「空を飛ぶものは飛行機以外なんでも食べる、四本足のものは机以外なんでも食べる、二本足のものは親以外なんでも食べる」という中国人に事実上、食のタブーはない。当然、猿も食べる。
彼らが編み出した猿の調理法数多あれど、もっとも不可思議なものは脳みその食べ方だろう。といっても、何も複雑な方法ではない。まず捕まえた猿を椅子に座らせ、幾重にも縛りつける。次にペンチの親玉のような器具で猿の頭を挟みつけ、しっかりと固定する。続いて頑丈な糸のこぎりのようなもので、きこきこと猿の頭蓋を丸く切ってゆくのだ。このとき、中身の脳みそに傷をつけないよう細心の注意を払うのは言うまでもない。この頃には猿もすっかりおとなしくなって、心なしか放心した表情になっている。あとは頭頂部を掴んでぱかっと開き、大ぶりのスプーンでねっとりした脳みそをすくって食すのみである。
不可思議、と私がいうのは、生食の習慣の少ない中国人が猿の脳みそに限って「こればっかりは生、それも生き作りでなくては」と口を揃える点だ。そのこだわりは、単なる美食への情熱を超えたところがある。味を追求するのであれば、きれいに蒸し上げてしまった方が、血の臭いも抜けて蛋白質のほくほく感も出ようというものだが、中国人たちは耳を貸そうとしない。しかし、その理由については「なぜだか知らないが、生きた猿こそがすべてだ」と言い張るばかりなのである。
長年の考究の果て、私がたどりついた仮説をここで披露しよう。彼らはあたかも獏が夢を食うように、猿の夢を食らっているのだ、と。
ご存知のように、世界には死の瀬戸際に立ち、光を見たり、空を飛んだり、横たわっている自分を眺めたりしたのち生還した、といういわゆる臨死体験の報告例が無数に存在する。なぜ、そんなことが起こるかは明らかになっていないが、有力な仮説の一つに脳内麻薬説がある。
肉体的危機状態に陥ると、それを和らげるために脳内麻薬物質エンドルフィンがどばっと分泌されることはよく知られている。たとえば心理的ストレスにさらされるだけでも、エンドルフィンの分泌量は増加するのだ。しかも臨死状態では新陳代謝の機能は低下しているから、エンドルフィンもなかなか代謝されず、頭脳に過剰に蓄積される。臨死体験は、この脳内麻薬が見せる幻覚だというのである。
ここまで説明すれば、もうお分かりだろう。生きながら頭蓋骨をきこきこやられた猿の脳はモルヒネの十倍以上の効き目を持つ麻薬をたっぷり含んでいるのだ。中国人の食べていたのは、単なる猿の脳みそではなく、猿の脳みその麻薬漬だったということになる。猿はもうひとつの阿片だったのである。
この仮説によって、何故きこきこされるのが猿でなければならなかったのか、その必然性も理解できる。猿ほど脳が十分に大きく、また複雑に発達した動物はちょっといないからだ。
「脳が十分に大きく、また複雑に発達した動物」といえば、すぐに思い当たる動物がいる。そう、鯨である。このことに気付いた中国が突然、猛然と捕鯨活動に乗り出しても、私は驚かない。一部の反捕鯨論者は「鯨は知能が高いから食べてはいけない」と主張するだろうが、中国人には何の説得力もないだろう。なぜなら彼らが猿や鯨、そして人間を食すのは「知能が高い動物だから」にほかならないからである。

参考文献

 北寺尾ゲンコツ堂	『ゲテ食大全』	データハウス
 立花隆    	『臨死体験』	文藝春秋
 中野美代子  	『カニバリズム論』	福武文庫



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