森の権利、砂漠の権利

前島篤志




かつて奄美大島の環境破壊を訴えるグループが、この島に棲息するアマミノクロウサギを原告に立てようと試みたことがある。ご存知のように、民事訴訟は、その訴訟によって利害を問われる当事者でなくては原告となることができない。たとえば「屋久島の杉を守れ」と主張する東京在住の自然愛好家が果たして当事者といえるだろうか。主観的にはともかく、法的にはかなり難しいと言わざるを得ない。それなら棲息環境が直接脅かされるウサギには原告の資格があるだろう、というのが、原告側の主張なのである。
こうした「人間以外の環境破壊の被害者」を法廷に連れ出す闘争戦略、あるいは問題提起の典型は、アメリカの法哲学者クリストファー・ストーンによって書かれた「樹木の当事者適格―― 自然物の法的権利について」であろう。ストーンは以下のように、原告はけっして人間に限らないことを論証した。
「河川や森林はみずから弁護することができないから(原告として)適格性がない、という主張は妥当でない。なぜなら会社、国、市町村、大学等、それ自体は弁護することができないが、弁護士がこれに代わって弁護しているではないか。」
やや強引にもみえるこの議論の根底には、アルド・レオポルトの提唱した土地共同体(ランド・コミュニティ)という概念がある。土地共同体においては、土壌も水も植物も動物も、もちろん人間も、ともに構成メンバーの一員であり、保護されるべき権利を有する、という考え方だ。ストーンの議論は、土地共同体(たとえば森)それ自体もある種の法的人格を持ち得る、つまり一個の主体であると考えるものである。
森が一個の生命体だという考え方は肯ける点は少なくない。第一に森は成長する。いくばくかの草むらが、やがて青々とした樹木の茂りとなり、鬱蒼たる極相林に至るまで、森は長い長い生涯をすごす。また、森は独立した小宇宙である。あまたの生物が生き死にを繰り返すなかで、森の成長を支えてゆく。木の芽を齧る鹿も、それを襲う狼も、死しては虫や菌類に分解され、肥沃な土壌に帰る。土からはやがて新たな芽が吹き出し、聳える巨木となるだろう。その意味では杉もルリビタキもオオクワガタもアライグマも、森をかたちづくるひとつの細胞だといってよい。しかも彼ら、森の樹木は人間よりもはるかに長い間、この地上にあり、またこれからも留まるのである。
このように考えると、「森の権利」を無視することなどあってはならない。しかし「森の権利」が主張される一方、あえて議論を避けられてきた問題がある。それは「砂漠の権利」である。
ご存知の通り、人間の居住地域は拡大の一途を辿っている。そのため、深刻な食糧難と貧困、それに伴う戦争、またそれに伴う貧困と飢餓、またまたそれに伴う戦争……という悲惨のメリーゴーラウンドが音を立てて回転しているのが現状である。砂漠を緑化し、農業革命を起こせば、事態は改善されるのではないかと考えたとしても無理からぬところだ。
しかし、海外青年協力隊に入って、井戸を掘る前に考えてほしい。それは砂漠の環境破壊ではないか。緑の生い茂る砂漠なんてもはや砂漠ではない。実際、井戸を掘って水を吸い上げれば、地下何十メートルも根を下ろすことによって生きてきた砂漠の植物の生態系に影響を与えないなどということは考えにくい。ディズニー映画のタイトルではないが、『砂漠は生きている』のである。
ともに一個の生命体として考えるならば、森林は尊く、砂漠は価値がないとする理由などないはずである。もし森林の方が価値があると考えるならば、森林の構成メンバーたる温帯周辺の民族の方が、砂漠の構成メンバーたる民族よりも価値があるということになるではないか。
いまこそ我々は砂漠の環境保護に乗り出すべきである。これに反対する者は憎むべき人種差別主義者である。この結論には、砂漠に住むだけでは飽き足らず、世界最大の兵力も持つ米軍に繰り返し自国を爆撃させ、更なる国土の荒廃(言い換えれば砂漠化)を進める世界一の砂漠野郎、サダム・フセイン氏も両手を挙げて賛成してくれることだろう。

参考文献

 アルド・レオポルド『野生のうたが聞こえる』 森林書房
 「現代思想 特集:木は法廷に立てるか」    青土社
 間瀬啓充『エコロジーと宗教』        岩波書店



論文リストへ