「ニワトリが先か、卵が先か」論に関する言語分析的帰結

上野均



 「ニワトリが先か、卵が先か」。古来より、決定不能性を表すものとして知られる命題である。卵が先ならばそれはどこから生まれたか、ニワトリが先ならばその卵は、といった具合に循環することによって、答えを無限延期できる構造になっているといえる。本論の目論見は「ニワトリとは何か、卵とは何か」という問い、いわば問題構成要素の厳密な(あるいは適切な)定義を通じて、この循環に非対称性をみつけ、それによって環を切断することにある。つまりは、この論議に終止符を打たんとするものである。

 まず、「卵」の定義から始めよう。すなわち、卵とは未分化な生命元素であり、将来複数回の分化を経て、ある生物体を為すものである。この定義から卵Aは、そこからヒヨコA'が発現したことにより、卵であったと事後的に確認できる。[図1]

 それに対して、「ニワトリ」を生物種として規定するのは、その生物の種的継承可能性が証明されたときのみである。図2を見てみよう。「ニワトリ」(と仮称できる生物)Aが、卵Bを生む。Aが真に「ニワトリ」であることは、卵Bが成長、分化し、Aと同系の生物B"になったときに始めて確認できるのだ。

 したがって図2の例をとるならば、「卵」がB−B'において「卵」と規定されるのに対して、「ニワトリ」はA−B−B'−B"といったサイクルでしか、「ニワトリ」と規定され得ない。その時間的遅延は決定的な非対称要素ではないか。よって、結論することが許される。ニワトリよりも卵が先なのだ、と。(Q.E.D.)


 補遺:なお、ここにおいては「親鳥と卵のいずれが先か」であるとか、「ニワトリとニワトリの卵はどちらが先か」といった命題は扱われていない。おそらくそんなことは大した問題ではないのだ。人類が長らく論じ合ってきたのは、あくまでも「ニワトリが先か、卵が先か」なのだから。

補遺部分は、法野谷俊哉「「帰結」に異義あり!引喩の見落としは許されるべきか」への反論として書かれた。



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