日曜科学者のありかた

ひあろ



 一時期、ずい分ともりあがった当学会であるが、現在学会員からの論文が集まらず、学会誌の方も休刊の憂き目にあっている。
 私も人のことは言えないのであるが、論文を書くというのはなかなか難しいものである。そこで、みなさんが論文を書く際の助け(あるいは、きっかけ)になればと思い、本稿を書かせていただいた。

 「推測科学」とうのをご存じだろうか?
 私はこの言葉を初めて聞いた時、思わず「おおっ、これだ!」とって自分のひざを打ったそしてつま先がぴょこんとハネ上がるのを見てカッケでないことを確認した訳であるが、科学の中には実験や観察によって確認できないものがある。
 例えば進化論であるが、本当に人間が猿と共通の祖先から分れて進化したのかは確かめようがないのである。確かめようと思ったら、何万年も前の地球と同じ環境を用意して、人間が人間に進化するのに要した時間と同じ時間を待たなければならないのである。ましてや、宇宙の始まりなんて実験室では確かめることはできない。
 他にも原子レベルでのことや、原子よりもっと小さな物質のこと、脳のしくみなど、ある程度分かってきたものの、まだまだ確かめられない事象は非常に多い。
 結局これらは、少ない実験結果や観察結果を基にして推測するしかないのである。推測して推量して推論するしかないのである。こうした推測せざるをえない科学を「推測科学」と呼ぶ。科学は進歩している。推測が正しいかどうかは、科学が進歩した時代の科学者が確かめてくれる。安心しよう。
 最先端の科学でさえ、こうなのだ。我々日曜科学者が何を臆することがあるというのだろう。むしろ、科学とは本来そういうものだと言ってもいいかも知れない。科学の進歩というのは推測を事実として確認することだとも言えるだろう。
 推測科学とはつまり科学のことだったのだ。
 科学は1つの疑問から始まる。そしてその疑問を解決するために手をつくす。そして科学は1つのひらめきによって花開くのである。
 我々日曜科学者には大学の研究室のように高価な実験道具は無い。優秀な技術陣もいない。しかし、疑問は尽きない。ひらめきを持つこともできる。解決のために手をつくすことだってできる。それだけあれば、科学をするには充分であると言えよう。
 答えが出なくても構わない。ある程度の材料がそろっていれば、そこから推測すればいいのである。いま一度初心にかえってみよう。日曜科学とはなんであったのか。日曜大工のように、本職でない者がやる、片手間の科学であったはずだ。気負うことはない。分からなければ、他の人に聞けばいいのである。
 ----私は、このことを疑問に思う。で、ちょっと調べてみたんだけど、こんな結果だった。これはつまり、こういうことじゃなかと思うのだが、よく分からない。他のみなさんの考えはどうだろうか----
 なんて具合でもいいだろう。とにかく何か書いてみないことには始まらないのである。そう考えれば論文(なんて言い方がまずいのかも)も書きやすいのではないだろうか。
 ファーブル先生を見習おう。フンコロガシはフンをどこまで転がしていくのか? 疑問があればあとはじっと観察してみるのだ。ここには、高価な実験道具も何もいらない。あるいは、疑問に対してどうしてなのかを一生懸命考えてみよう。うまくすれば、夢を見てベンゼン環をひらめくかも知れない。
 さあ、同志日曜科学者諸君よ、いまこそ立ち上がろう。科学の道はすぐそこに開けているのだ!

 と、無責任にもりあげて終わるのであるが、本稿が少しでもみなさんのお役に立てば幸いである。そして、机上理論学会がいままで以上に発展することを願っている。
 最後に、私は「推測科学」の本当の意味を知らない。そう、私が推測したのである。



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